道々の枝折

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流鏑馬の謎〈執権北条時宗を怖れさせた騎射戦術〉

2018年07月15日 | 歴史探索

流鏑馬という、各地の有力神社で毎年奉納 される、人馬一体の勇壮かつ華麗な馬術を、昔から一度は観たいと思っているが、今だに実現していない。ユーチューブで動画を見たり、ピンタレストで画像を探して我慢している。

過日、流鏑馬の画像を何気なく見ていたとき、騎手の装束の被り物に、違いがあることに気づいた。後日調べて、流派により被り物が違うことを知った。

騎乗の射手の被り物は、ほぼ三種類に分かれる。

①綾藺笠(あやいがさ)

②侍烏帽子(さむらいえぼし)

これら二つの笠は、鎌倉期以後の武士が常用したもので、映画などでもよく観る。それぞれ武士の非公式または公式の被り物として、普通に用いられていた。

③綾桧笠(あやひがさ)

着目したのはこの笠である。流鏑馬以外にこれを被る例を知らない。房毛を笠の中心から生やした特徴が、モンゴル騎兵(広くは中央アジアの騎兵)のヘルメットに、酷似していることに気づいた。

笠の中心突起部から房毛を靡かせる綾桧笠は、どう見ても胡風というか、日本の鎌倉武士の旧来の風俗に馴染まない。他の二種と違って、流鏑馬専用の笠ではないか?

比較のために、中世モンゴル軍戦士の画像を添えるので、お確かめ願う。

流鏑馬は、通説では平安時代に発生し、鎌倉時代に武士の武技鍛錬のひとつとして盛んになったと言われている。流鏑馬と共に、笠懸とか犬追物という騎乗弓射の武技が三つあったことが、日本史教科書などには掲載されていた。現在の流鏑馬神事をユーチューブ で見る限りは、静止体への近接騎射であって、とても実戦で活用できる戦技ではない。

この国に疾走騎射という戦技は元寇(1274年)以前からあったのか?それとも、その後、神事にのみ行われるたものなのか?そこがハッキリしていない。明確な検証が無い。〈承久の乱〉の時に、後鳥羽上皇が流鏑馬を口実に兵を集めたのは史実のようだが、それは儀式での集合であって、疾走騎射戦術が、戦闘で実用されていた証明にはならない。

儀式にもせよ、流鏑馬の起源が平安時代にまで遡るかどうかとなると、神社の流鏑馬奉納の記録は信頼できない。それを確実に証明する考古史料も無い。

〈前九年・後三年の役〉においても、疾走騎射戦は無かったようだし、〈保元平治の乱〉や〈源平合戦〉でも、疾走騎射という戦技は現われていない。平安時代の騎馬戦は、専ら停止騎射の記録があるばかりである。

元寇以前の数ある合戦で、騎馬武者たちが疾走する馬上から弓を射合って闘った史料は一切存在してない。つまり、疾走騎射戦というものは、日本史に現われていなかったと考えられる。そもそも古墳時代より前には、日本に馬はいなかったという説もある。もしそうなら、騎乗そのものが歴史的に新しい。

草原の遊牧民に普遍的な疾走騎射術は、元寇以前の鎌倉武士には無縁のものだったとみてよいと思う。それは、武士たちが用いた鞍・鐙(あぶみ)・弓・鎧を、同時代に草原の戦士たちが用いていたものと逐一比較し検証すればすぐ理解できる。特に大陸に例の無い日本独特の鐙(あぶみ)の構造形状にその鍵がある。

遊牧民族の鐙は、ブーツを履いた足を鉄の環の中に通す構造をしている。これによって、彼らは馬体に密着し、人馬一体、自在に上半身を動かし前後左右に、時には馬腹の脇からでも弓を射かけることができた。

わが国古来の鎧は、沓を履いた貴人が足を乗せる形をしている。これは馬が貴人の乗り物であったことを傍証するものである。

日本の馬の乗り手がブーツを履いたことはない。草原の戦士の疾走騎射は、馬上から360度、どの方向にも矢を射るが、停止騎射の武者は馬体側方しか射れない。

大鎧に身を固めた騎馬武者同士が組み討ちになれば、必ず共に落馬する。地上で組み討ちを続け、対手の首を取る。それが平安時代の騎馬武者の格闘戦術だった。和式鐙に大鎧では、組めば共に落ちるしか無い。かつての運動会の華、騎馬戦は平安時代の騎馬武者の闘いの模擬戦だった。貴重な歴史的文化遺産だったのに、危険という理由で運動会から廃されてしまったのは残念である。

日本人は、戦争で馬を巧みに操って戦ったことがないのでは?私は素人の特権で、大胆な推理をしてみた。

①日本の鎌倉武士の疾走騎射術は、元寇後に行われるようになったのではないか?

②元寇では、高麗の歩兵よりは遥かに少数ながら、蒙古の騎兵部隊が参加していたのではないか?

③元寇において九州御家人を主力とする鎌倉武士団を翻弄し苦しめたのは、通説で説かれる敵の密集戦法でも火薬兵器でもなく、蒙古人騎兵による疾走騎射戦術ではなかったか?

④疾走騎射術に愕いた鎌倉幕府は、戦後蒙古騎兵の捕虜たちを教官に、各地の武士団に疾走騎射術を学ばせ調練したのではないか?

⑤この国には珍しい異相の騎射術だったから、元が滅び操練の必要が無くなると廃れ、疾走騎射術は流鏑馬として、神に難敵退散を祈る神事として奉納されるようになったのではないか?

鎌倉幕府成立以前、源平合戦の頃の騎馬武者は、大鎧に身を固め歩卒数人を引き連れて騎乗、太刀をもって敵の騎馬武者と一騎討ちで戦った。武者に従う歩卒たちは、敵の馬の脚を払う薙刀や太刀、弓矢で武装していた。騎馬武者は敵と距離が離れているときには、停止した馬上から長弓を射る。接近戦が始まると敵の騎馬武者と太刀をもって打ち合い、十中八九は組み打ちにより対手と共に落馬し、地上でとどめを刺した。歩卒は騎馬武者を敵の歩卒から護りつつ歩卒同士で闘う。当時の合戦での武士は、基本的に一騎討ちの戦闘をしたのは間違い無いだろう。

元寇の直前までの国内での戦闘は、これとほとんど変わっていなかったと思う。しかも、奈良時代以来この国では、馬は貴重な動物で、騎乗は貴顕・高官・将官にのみ許されるもの、騎乗して闘う兵卒身分の騎士というものは一切存在していなかった。

蒙古人騎兵は軽い革の甲冑、鉄のヘルメットを被り、自在に馬を疾駆させながら敵に接近し、剛強の短弓(合成弓)から射程の長い矢を発射する。しかもパルチアン・ショットと呼ばれる、疾駆しつつ敵とすれ違い、振り返りざまに射撃する、草原世界に普遍の騎射術で敵を射る。疾走騎兵同士の弓射では、すれ違いざまの後方射撃が高い命中率を誇った。前方や側方への騎乗弓射は命中精度が格段に劣る。しかも彼らは時に毒矢を用い、擦り傷でも重症化させる術にも長けていた。

蒙古に限らず、草原の諸民族の騎馬戦士は、幼い頃から小動物の狩を通じてこのような騎射技術に熟達し、技を競い合って成長した。近接戦に有利なパルチアン・ショットは、短弓があってはじめて可能になる弓射術でもある。長弓は、騎乗の近接戦では全く役に立たない。

体格のよい馬に乗ったヨーロッパ諸侯連合の大柄な重装騎兵が、矮小な馬に乗り貧弱な革の甲冑を纏った小躯のモンゴル騎兵に散々に打ち破られた大きな理由は、彼らが短弓パルチアンショットという、モンゴル軍の疾走弓射戦技に歯が立たなかったからだと見られている。

この騎射術に、鎌倉武士団が元寇で初めて遭遇したとしたら、瞠目し戦慄したことだろう。疾走騎射と停止騎射との闘いは、勝負にならない。

文永の役では、騎乗身分の御家人一族や郎党の犠牲が、幕府の予想を遥かに上回り、当の御家人たちや執権時宗の心胆を寒からしめたのではないか?

元軍は、多数の高麗歩兵を前面に押し出して上陸作戦を敢行したと思われるが、精鋭の蒙古人騎兵を伴っていたと想像する。敵地の占領を目指す作戦であるから、ユーラシア大陸を席巻し中世世界を震撼させたモンゴル騎兵団の優勢な戦力を伴わずに遠征して来たとは考えられない。船団には、多数徴発された高麗の農民兵とは別に、少数ながら精強な蒙古人騎兵部隊が乗り組んでいたと見るのが自然ではないだろうか。

彼ら蒙古人騎兵は、数では高麗人の歩兵に較べごく少数だったとしても、縦横無尽に敵中を駆け巡り、御家人軍団の鎧武者たちを次々と射撃したに違いない。鎌倉武士たちは、初めて遭遇した蒙古人騎兵の疾走騎射に動顚し、成す術も無く太宰府近郊まで敵の侵入を許してしまったのだろうと推測する。高麗兵との歩兵戦だけだったら、御家人軍団は海岸線で押し返し、其処まで攻め込まれなかったろう。

ところが不思議なことに、歴史は元寇での蒙古人騎兵の存在に一切触れて居ない。蒙古人騎兵の姿は、元寇の記録には一切現れていない。中世日本史最大の謎は、元寇で蒙古人騎兵の参戦記録が無いことである。

戦闘に参加した御家人たちの報告は、信頼できる史料とはならない。勝利を喧伝し敗北を隠蔽したがるのは兵家の常、本貫に依拠して家名を守る武士たちが、後の代に不名誉となる戦績を記録したり公表するとは考えられない。それは為政者で総大将の執権時宗も同じ立場であり、幕府の記録をそのまま信頼する訳にはいかない。武士民衆を問わず、民心の安定の名目で厳しい緘口令が敷かれた可能性が高い。それほどに、緒戦での元軍の戦果は目覚ましく、鎌倉武士団を圧倒凌駕していたのではないかと想像される。

実は、蒙古人騎兵の存在を窺わせるれっきとした歴史的遺構が遺っている。文永の役の直後から、幕府が九州の御家人たちを督励し、日に夜を継ぐ突貫工事で博多湾の沿岸に構築した高さ3m延長20kmに及ぶ防塁石築地)がそれだ。登り勾配の海岸斜面を遮断する石築地の直壁、防塁がもつ意味は大きい。

 この石塁は、歩兵の侵入を阻むには高さが決定的に足りない。手がかり足がかりに困らない3mの石垣は、歩兵には易々と乗り越えられる。仲間の肩を借りるまでもない。ハシゴなど不要だ。この石塁では、攻城戦に馴れた高麗歩兵を防ぐことはできない。だが馬体の小さい蒙古馬に対しては、この高さの石塁は完璧な防御力をもつ。騎乗しては決して跳び越えられない高さである。この防塁は、騎兵防御を目的として構築された馬防壁だったに違いない。鎌倉武士団にとっては、自分たちが対抗できる歩兵よりも、高い機動性と殺傷力をもつ蒙古人騎兵を一兵たりとも防衛ラインの内に入れないことが、最も重要な戦術課題だったに違いない。

もし敵が歩兵部隊だけであったなら、歳月と労力をかけて石塁など築かなくても、より構築の容易な空堀・土塁、木柵・逆茂木で十分だったろう。むしろその方が歩兵に対しては防御性が高い。だが、土塁を崩され空堀を埋められ、騎馬一騎分の侵入路を敵に与えれば、騎兵は続々と突入し防御陣地内に乱入する。現地は海岸の砂地で、騎兵の突入路を築くのはごくたやすい地質だった。

6年もの歳月と費用・労力かけて石の防塁を築いたのは、再度の元軍来襲を想定した鎌倉幕府が、蒙古人騎兵の上陸を完全に防ぐことに総力を挙げた証しであろう。前の文永の役で、蒙古人騎兵に海岸線の各所で防御陣地を突破され、内陸部への侵攻を許し、甚大な人的損害を被った苦い体験が、幕府に石塁構築を決断させたと見て良いのではないか。

福岡市の「生の松原」で、初めて石塁を見た時、この防塁の目的が騎兵防御にあると直感した。当時の国内での戦争の野戦陣地は、土塁と空堀、逆茂木と柵の組み合わせが一般的だった。石垣を構築する城郭は、後の戦国時代に入ってからのものである。

文永の役で初めて蒙古人騎兵の戦闘力の高さを体験した鎌倉幕府と九州の御家人軍団は、騎兵の侵入を阻むために、多大な費用と労力を投じ、石積み築地の防塁を突貫工事で構築したと推測する。それほどの大工事を幕府に踏み切らせたものは、文永の役での手痛い敗北の事実、侮れない敵の戦力であったのではないか?

日本人は自尊心が異様に高い。夷狄と侮っていた敵に完膚なきまでに敗けたことは、武士にとって末代までの恥となる。蒙古騎兵との戦闘は隠蔽され、彼らの存在や上陸の事実は、歴史の闇に消えたのではないか?

しかし異民族との戦争は、武士たちにとって新兵器新戦術戦技を学ぶ絶好の機会となった。弘安の役後の鎌倉武士たちは、自分たちに欠けていた騎射戦術の導入を競って図り、技能の向上に努めたのではないか?蒙古人騎兵と対等に闘う戦技を身につけなければ国が危うい。その戦技訓練から、流鏑馬・笠懸・犬追物の三種目が各地に普及したのではないだろうか?国中の武士たちが、この戦技をマスターする必要に迫られたということだろう。ただし、学習は弓や鞍・鐙など旧来の武器・馬具などハードウェアの改変までには及ばなかった。蛮族の武器や馬具までも模倣するのは、プライドが許さなかったのかもしれない。後の世の明治になって、これと似る妙なプライドが現れる。和魂洋才である。近代技術は洋を学ぶが、精神は和に依拠するという妙なこだわりである。

蒙古式騎射の指導者は、多数の捕虜の中の蒙古人騎兵であったに違いなく、各地で教えるに充分な人数は確保できたと思う。通説では、元寇での捕虜は全員殺害されたことになっているが、それは幕府の表向きの広報だったのだろう。鎌倉武士たるものが、蒙古人捕虜から戦技を学ぶなど、絶対に秘密にする必要があったはずだ。

旧敵ではあっても、鎌倉武士たちにとって彼ら蒙古人捕虜たちは、戦技向上のためのかけがえのない貴重な指導者である。徒や疎かには扱わなかったと思う。武力に拠って立つ武士たちは、戦争被害者の民衆に比べ、現実的で柔軟であったろうことは想像するに難くない。騎射戦技に長けた蒙古人捕虜が、密かに軍事顧問として鎌倉幕府や御家人に優遇された可能性はあり得たと思う。

彼ら蒙古人顧問たちが騎射を教授する際に着用した服装や被り物が、故地のもの乃至はそれに類似した模造品であっても不思議ではない。

異国の技術・文化を学ぶとき、その国の風俗を真っ先に真似るのは、何処の国でもいつの時代でも変わらない。

文永の役までは、日本の武士は疾駆する馬上から敵を射ることを知らなかった。馬具武器兵装が、何よりもそれを物語る。パルチアンショットなど絶対に不可能な馬具・武器・兵装だった。

元寇で、多数の高麗人江南人の歩兵と互角以上に闘えた御家人軍団も、上陸した少数の蒙古人騎兵には、為すところなく敗北したのではないか?これを隠された史実と推理するのは、荒唐無稽とは言えないと思う。

鎌倉幕府は、捕らえた蒙古人捕虜の将兵を指導者として、彼らの騎射術の操練を、鎌倉武士たちに課し督励したと推測する。それも全国規模で・・・

クビライが第三次遠征を計画していたことを、鎌倉幕府は諜報によって知っていたはずだから、それは喫緊の課題だったに違いない。

幸運にも元の第三次遠征は実行されなかった。弘安の役から13年経った1294年、元帝国の皇帝クビライは死去する。以後、ユーラシア大陸の覇者、元帝国は衰退に向かう。1368年に明が起こると、元は明に都を追われ、1370年にはさしも剽悍なモンゴル騎兵団も、長城の彼方、モンゴル高原の故地に去って行った。

元の脅威が去り、蒙古人騎兵と交戦する蓋然性が無くなると、鎌倉武士たちは騎射操練に励まなくなった。異国との交戦で学んだ疾走騎射の戦技は、わが国の武士には根付かなかったようだ。というより、疾走騎射の適性がなかったというのが正しい認識だろう。

そもそも農耕民族の日本人は、古代にの所在した土地の住人を除き、騎乗疾走そのものが得意でなかったのだろう。実戦的な騎乗弓射のためには、そして短弓の三つを胡風に改めなくてはならないが、日本人同士の戦いにはその必要はなかった。日本の武士たちには騎乗弓射の戦技は普及せず、互いの脅威にはならなかった。そして次第に廃れたと見る。

騎射操練で学んだ戦技は武士の実用に根付かず、神に難敵退散を祈る神事として奉納されるようになり、現代に遺ったと考えられる。房毛の付いた綾桧笠に、この国に初めて疾走する馬からの弓射を教えた指導者たちの名残りを見るのは、想像が過ぎるだろうか・・・?


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