共同通信エンタメOVOに連載中の
『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
事実は小説よりも奇なりの実話を映画化した
『ドリームプラン』『ボブという名の猫2 幸せのギフト』
共同通信エンタメOVOに連載中の
『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
事実は小説よりも奇なりの実話を映画化した
『ドリームプラン』『ボブという名の猫2 幸せのギフト』
『ボブという名の猫2 幸せのギフト』(20)(2022.2.23.オンライン試写)
英ロンドンを舞台にした、ジェームズ・ボーウェンのノンフィクションを基に、どん底の生活を送るホームレスの青年が1匹の猫との出会いを通して再生していく姿を描いた『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』(16)の続編。
ホームレスのストリートミュージシャンから一躍ベストセラー作家となったジェームズ(ルーク・トレッダウェイ)と、彼に幸運をもたらした茶トラ猫のボブ。
出版社のクリスマスパーティに出席した彼らは、その帰り道、路上演奏の違反で警察官に取り押さえられたホームレスの若者ベンを助ける。
ジェームズは自暴自棄になっているベンに、自身が路上で過ごした最後のクリスマスの話を語り出す。それはジェームズにとって、最も困難で苦しい選択を迫られた忘れられない日だった。
前作に引き続いての、瓢箪から駒的な“福を呼ぶ猫の話”だが、今回は、ジェームズが「自分にはボブを飼う資格があるのか」と悩む姿を通して、猫(ペット)の幸せとは?を問い掛けるところがある。
また、息子を亡くしたインド系の隣人ムーディ(ファルダット・シャーマ)、ジェームズの世話を焼くアジア系のビー(クリスティーナ・トンテリ・ヤング)、身障者でもある『ビッグイシュー」の販売員ミック(セリン・ジョーンズ)、飼い猫を亡くした黒人の動物福祉担当員(アレサ・アイエ)など、ジェームズを取り巻くマイノリティな人々の人情が描かれ、「いいことをすれば、自分にもいいことが返ってくる」という、一種のクリスマスの奇跡話になっている。フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』(46)を思わせるところもあった。
これをご都合主義だとか、出来過ぎた話などと批判するのは簡単だが、たまにはこんな話があってもいいと思う方が豊かな気持ちになれる。それがクリスマス映画の効用だ。
監督は、前作のロジャー・スポティスウッドに代わって、『アメリカン・グラフィティ』(73)の眼鏡のテリー、『アンタッチャブル』(87)の経理係などで、俳優としても活躍したチャールズ・マーティン・スミスが担当し、手堅いところを見せる。『アメリカン・グラフィティ』出身でいえば、ロン・ハワードも監督として活躍している。
『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/2c9010f7c681d71b1eeb631e041b6458
自分は新御三家(野口五郎、西城秀樹、郷ひろみ)に親しんだ世代なので、橋幸夫、舟木一夫と共に、御三家と呼ばれた歌手としての西郷輝彦の活躍はよく知らないが、小学生の頃にはやった「星のフラメンコ」(作詞・作曲:浜口庫之助)だけはよく覚えている。
当時のご多分に漏れず映画化もされているが、さすがにこれは見ていない。脚本はかの倉本聰が書いたようだ。
後年、出だしの「好きなんだけど 離れてるのさ」を「すき焼きだけど 肉がないのさ」と替えて歌ったタモリの「肉のフラメンコ」がある。
タモリはジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」(作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫)の替え歌「ブルー・エンペラー」も歌っている。
で、「ブルー・シャトウ」といえば、子どもの頃、出だしの「森と 泉に 囲まれて」を「森トンカツ 泉ニンニク かーコンニャク まれ天丼(てんぷら)」と替えて歌ったことを思い出す。あれは一体誰が作ったのだろうと思って調べてみたら、どうもチャコちゃん=四方晴美らしい。
さて、西郷は俳優としても活躍した。その始まりは、花登筺原作のドラマ「どてらい男」で演じたモーヤンこと山下猛造だ。モーヤンをいじめ抜く藤岡重慶や高田次郎の憎々しさが見どころの一つ。妻役の梓英子に憧れた。
「どうせ一生、あー、どてらく生きにゃあ」という主題歌(作詞:花登筺、作曲:神津善行)もよく覚えている。映画版では小柳ルミ子が妻役を演じたようだが、これは見ていない。
その後は、「江戸を斬る」シリーズの遠山金四郎、大河ドラマ「独眼竜政宗」(87)の片倉小十郎、「田原坂」(87)の西郷従道のほか、映画では、『狼よ落日を斬れ』(74)の沖田総司、『柳生一族の陰謀』(78)の徳川忠長、『赤穂城断絶』(78)の浅野内匠頭、『小説吉田学校』(83)の田中角栄など、実在の有名人を演じることが多かった。
『城盗り秀吉』(講談社文庫)
(2004.9.20.)
この場合の“城盗り”は力攻めではなく、調略で城を奪うというもの。秀吉という人物は、天下人となるまでは、下賎の身から出世していく一種のすごろく人生で、庶民にとっては憧れであり、手本にもなる。なにより出世していく様が面白い。
だが、後半生は、朝鮮出兵、身内や家臣を切腹させるなど愚行が多く、その一生を描くと矛盾だらけになる。人間は向上を望むが、身分不相応まで出世すると逆に破滅するという典型がここにあると思うとちょっと悲しいものもある。
この小説は、秀吉の前半生から中盤、いわゆる旬の時代を、山の民という架空の存在をからめながら描いたもので、そんな矛盾をあまり感じずに読むことができた。まずまずの面白さ。
今回のお題は、スティーブ・マックィーン主演の『トム・ホーン』(80)。
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/3e43f86004e3dc98ab726980db5bb068
大コケした『民衆の敵』(78)の後に、マックィーンが、ロバート・レッドフォードと映画化権を争って獲得し、製作総指揮を務めた西部劇。
当初の監督はドン・シーゲルの予定だったというが、結局何人も監督が代わり、最後はテレビ出身のウィリアム・ウィアードが監督をしたことになっているが、これは名ばかりで、実際はマックィーンが監督をしたようなものだという。これは『栄光のル・マン』(71)でジョン・スタージェスと仲たがいしたのと同じようなケースか。
相手役がどちらも女教師ということも含めて、遺作となった『ハンター』(80)とは、陰と陽、コインの裏表のような印象を受ける。
マックィーンには、結構西部劇俳優のイメージがあるが、実際にが出演した西部劇は、実は『荒野の七人』(60)と『ネバダ・スミス』(66)とこの映画だけ(『ジュニア・ボナー』(72)は現代西部劇)。テレビシリーズの『拳銃無宿』の印象が強いからだろうか。
メンバーが送ってくれた当時の新聞広告
『「鉄学」概論』原武史(新潮文庫)
(2011.1.29.)
社会や歴史と鉄道とのさまざまな関係を面白く読んだが、ほぼ同世代の“鉄”の筆者に、素直にうなずけるところとそうでないところがあった。
それは、あとがきで宮部みゆきも書いていたが、東京のどちら側で生まれ育ってしまったかが問題なのだ。特に鉄道は、普段利用する路線によって思い入れや認知度が大きく異なる。それは映画館も同じで、どこでその映画を見たかで映画の印象が微妙に違ったりもする。
自分にしても、今は葛飾区の金町に住んでいるが、城南の品川区で育った者にとって、ここはほとんど未知の土地だった。そして、昔は、私鉄といえば京成よりも断然東急だった自分が、今はまったくその逆になっているということにも不思議な思いがした。
『グッとくる鉄道』鈴木伸子(リトル・モア)
(2011.5.20.)
【新幹線】【カーブ】【鉄橋】【地下鉄】。女性の視点から見た“鉄道ポイント”が新鮮だった。見慣れた風景もちょっと視点を変えると魅力的なものに変化するのだなあ。
『失はれた地平線』(37)(1994.4.13.)
外交官ロバート・コンウェイ(ロナルド・コールマン)のもとに、理想郷シャングリラへの案内人が現れる。その地の住民となる資格を得たコンウェイは、そこで運命の人ビゼー(ジェーン・ワイアット)と出会う。安らぎと喜びの日々が過ぎるが、やがてコンウェイは、ある決断に迫られる。
なぜこの映画を今まで見なかったのか。その理由は、主演のコールマンが、フランク・キャプラ的な世界の具現者であったジェームズ・スチュワートやゲーリー・クーパーに比べると、違和感があったことが大きいし、聞きかじりや読みかじりの情報によれば、これまたキャプラ的な世界とは異質なSFタッチというところにも、疑問を感じたからである。
ところが、見終わった今は、この映画が描いた理想郷こそは、キャプラが好んで描いた、夢のような人間や社会の姿が最も的確に表現されたものなのかもしれないと思った。
加えて、キャプラの映画は、変な言い方だが、総じて科学的ではないSFみたいなものだから、彼がこの映画を撮ったのも至極当然のことだという気がしたし、後の『群衆』(41)同様、迫りくる戦争への警鐘や皮肉として見られないこともない。
そして、危惧していたコールマンも思いのほか適役で、『毒薬と老嬢』(41)のケ―リー・グラント同様、これはこれでスチュワートやクーパーとは違った味わいがあった。脇を固めるキャプラ映画おなじみのトマス・ミッチェル、エドワード・エバレット・ホートン、H・B・ワーナーも見事であり、ジェーン・ワイアットという幻の女優も美しかった。
それにしても、『或る夜の出来事』(34)から、『オペラハット』(36)、この映画、『我が家の楽園』(38)、『スミス都へ行く』(39)、そして『毒薬と老嬢』と『群衆』と、第二次大戦前のキャプラの映画は本当に素晴らしいと改めて感じたのだが、戦後は『素晴らしき哉、人生!』(46)しか傑作を生めなかったのだから、戦争が彼に与えた傷の深さや時代の変転を思うと胸が痛む。
『オペラハット』(36)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/a4c634b87148c96bb2ef64b59ce01e7d
『我が家の楽園』(38)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/eca042da7dea8e5de19a19dbbe9b9bb5
『スミス都へ行く』(39)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/4eeb8cdcc989fc8c0bbe0130ae60e4ea
『一日だけの淑女』(33)(1997.12.9.)
街でリンゴを売り歩きながら、細々と暮らしているアニー(メイ・ロブソン)の元へ、留学中の娘が婚約者とその父親を連れて戻ってくるとの連絡が入る。彼女は貧しい暮らしを隠すため、ギャングの親分デーブ(ウォーレン・ウィリアム)の協力を得て一日だけ淑女に成り済ますが…。
後年の『ポケット一杯の幸福』(61)のオリジナル映画。確かに、これを見てしまうと『ポケット~』に対する世評の低さも仕方がないと納得させられる。
両作の大きな違いは、やはり作られた時代にあるのだろう。大不況の最中に人々が映画に対して夢を抱いていた30年代と、価値観が大きく変転し、テレビが映画を追い越した60年代とでは、同じ話を語っても、観客の心への響き方は大きく異なるからだ。
また、キャプラが映画監督として最も脂が乗り切っていた30年代の作品と、引退作とでは比べるべくもない。『一日だけの淑女』には、キャプラの自らの映画に対する自信がみなぎっており、時代が変わっても、見る者を酔わせる夢物語としての迫力があるからだ。
いつか黒澤明が「オリジナルには、作られた時代故の力があるのだから、リメークは無意味だ」と語っていたが、まさしくその通りだった。
名画投球術No.1「たまには幸せになれる映画が観たい」フランク・キャプラ
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/9e99f5d4aed0879a4acec261f63f830c
『ポケット一杯の幸福』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/1c3156811cfee161832ad7a1aeb7fca6
『或る夜の出来事』(34)
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/6378baebc12f8f5501d9152e81ceb4b3
『其の夜の真心』(34)(1997.12.9.)
大富豪の令嬢と結婚したダン(ワーナー・バクスター)は、義父と衝突し、愛馬ブロードウェイ・ビルを連れて家を飛び出す。ダンは、愛馬をダービーに出走させるべく奮闘するが…。
これまた、後にビング・クロスビー主演で『恋は青空の下』(50)としてリメークされたものとは比べるべくもない、自信に満ちあふれた映画で、オリジナルの圧倒的な勝利であった。
この映画の白眉は、ラスト近くのブロードウェイ・ビルの馬券に、大衆が流れていく様子を描いた、マスヒステリー的な状況におけるたたみかけのシーンであった。キャプラ映画お得意の“ラストシーンの奇跡”に大いなる説得力を与える伏線がここにも如実に表れていた。
ただ、「フランク・キャプラのアメリカン・ドリーム」によれば、この映画のラストに示されたブロードウェイ・ビルの死について、観客は「ノー」と叫んだという。
つまり、この映画の時点では、キャプラ自身も“ラストシーンの奇跡”を信じ切ってはいなかったことになる。初めから楽天家のキャプラではなく、観客のニーズによって変身していった事実が、この映画には示されているのである。
『恋は青空の下』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/e5e72684bd8c56814501e8ba2f3fa17e