『ペーパー・ムーン』(73)(1982.5.9.日曜洋画劇場)
1930年代を舞台に、聖書を売りつける詐欺師のモーゼ(ライアン・オニール)と、母親を交通事故で亡くした9歳の少女アディ(テイタム・オニール)が、旅の中から互いの絆を深めていく様子を描いたロード・ムービー。
最近のテータム・オニールは、妙に女っぽくなってしまって魅力半減だが、この映画の彼女はまさしく最高だった。親父のライアンも二枚目を返上して、なかなか頑張っていたが、いかんせん娘の方が出来過ぎだったのだからどうしょうもない。
見る前のイメージとしては、チャップリンの『キッド』(21)があったのだが、実際は似て非なるものだった。それは、モーゼとアディがひょっとたら親子かもしれないという余地を残している点と、アディを女の子にしたことが大きい。
それによって、モーゼを父親とも恋人とも見てしまう、微妙な女心?が描けるし、男の子がやったら憎たらしく見えることも、女の子ということで、逆にかわいらしく見えるという効果もある。それを実の親子が演じているのも詐欺といえば詐欺だ。大いに楽しませてもらった。
2人の珍道中詐欺は、まるで落語の「時そば」のよう。洋の東西を問わず、似たような手口の詐欺(それも何となく笑える)があるとは…。モーゼが聖書を使って詐欺をするというのも皮肉っぽくて面白いし。
2人は未亡人を狙って聖書を売り歩く。金持ちの家ならばここぞとばかりに金をふんだくるが、生活に疲れた未亡人が小さな子どもたちとつましく暮らす家では、アディは聖書をタダで上げてしまう。そうしたさり気ない優しさも、いいアクセントになっている。
ピーター・ボグダノビッチは、『ラスト・ショー』(71)では、ハワード・ホークスの『赤い河』(48)を引用し、この映画ではチャップリンやジョン・フォード的な構図や風景を見事に自作の中に描き込んでいる。
ニューシネマ以降の監督たちの多くは、このボグダノビッチをはじめ、スピルバーグやルーカス、デ・バルマもそうだが、皆映画を見ること自体が好きでたまらない連中だということ。つまり彼らは、俺たちと同じ映画ファンの延長であるともいえるのだ。
この映画のラストシーンにしても、チャップリンの『モダン・タイムス』(36)からのいただきと言えなくもないが、決して不快な気持ちは湧いてこない。むしろボグダノビッチの映画好きとしての素直な気持ちが感じられて、何だかうれしくなってくる。そして、やっぱりこの手の映画はハッピーエンドでなければならないと思うのだ。
こんないい映画を撮ったボグダノビッチだが、最近はとんとご無沙汰。もう撮れないのか、それとも撮らせてもらえないのか…。いずれにせよ、カムバック・ボグダノビッチと願わずにはいられない。
『ブレージング・サドル』(74)でも共演していたマデリーン・カーンとバートン・ギリアムが、この映画でも頑張っていた。
【今の一言】これを書いたのはもう40年も前になるのか…。
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