『野良犬』(49)(1982.5.20.文芸地下.併映『銀嶺の果て』)
この映画を見ながら、随分前にテレビで見たジュールス・ダッシン監督の『裸の町』(48)と似ていると思った。舞台がニューヨークと東京という違いはあるが、どちらも、当時の風俗を見事に捉えたセミドキュメンタリーの快作であり、戦後生まれの自分に、実際の当時の状況は分からないが、これが本物だと感じさせるものがあった。
特に、三船敏郎が演じる、復員兵から刑事になった村上が、奪われた拳銃の行方を探って街を歩き回る描写にはすさまじいものがあった。戦場で生死の境を生きてきた者が醸し出す異様な雰囲気、何かに飢えたようなギラギラとした鋭いまなざし…、それが正邪のどちらに向かうのかは、まさに紙一重なのだと思える。
この映画の村上と、犯人の遊佐(木村功)は、その両極を成している。それ故、村上は遊佐の気持ちがよく分かるし、自分も一歩間違えていたら、立場は逆転していたかもしれないとも思うのだ。終戦直後は、誰もが犯罪者になる可能性があったということ…。
ところで、この映画の素晴らしさは、追っかけの連続によるテンポの良さに他ならない。村上がスリのお銀(岸輝子)を追い掛けるシーンに始まり、拳銃を探して猛暑の街中をさ迷い歩くシーン、後楽園球場の大観衆の中で拳銃密売人(山本礼三郎)を捕らえるシーン、雨中で撃たれる佐藤刑事(志村喬)、そして村上が遊佐を捕らえるラストシーンへと続き、アクション映画の醍醐味を存分に味わわせてくれる。
また、黒澤映画の特徴の一つである、ギラギラした太陽、すさまじい豪雨などの描写も、この映画から始まったのではあるまいか。
さて、以前、この映画を森崎東がリメークした『野良犬』(73)を見たことがあった。あの映画の時代背景は、高度経済成長末期の1970年代初頭。犯人は沖縄出身者で、暗く絶望的な映画になっていた。
これは、この二本が作られた時代が異質のものであり、前者は混迷の中にも希望が見えた時代、後者は希望が消え去ろうとしていた時代、という決定的な違いがあったせいだろう。従って、前者には救いがあったが、後者にはそれがなかったということになる。
そう考えると、今の80年代に、もしまた『野良犬』が作られるとすれば、それは一体どんな形になるのだろうかと思った。
(1990.7.)
暑い、暑い、今年の夏は本当に暑い。毎日そんなことを口走りながら、そういえばこんな暑さを背景にした映画があったことを思い出した。黒澤明の『野良犬』である。そんなわけで、余計暑くなるかな、などと思いながら見始めたら、相変わらず面白くて、結局最後まで見てしまった。
それにしても、40年という時代差を考えれば、またもう何度も見ているのだから、いい加減飽きてもよさそうなものだが、これが全く飽きないばかりか、何度見ても面白いのだから参ってしまう。
そして、若い頃にこんなすごい映画を何本も撮ってしまったことへの反作用として、今の年老いた黒澤の映画への批判につながる気がして切なくなった。例えば、今をときめくスピルパーグにしても、長生きして40年後も映画を撮っていたら、同じような状況に陥ってしまうのだろうか。
【今の一言】この記事からちょうど40年後の今、スピルバーグは『ウエスト・サイド・ストーリー』を撮った。まだまだ元気だ。
【コラム】「夏の記憶を残す映画5選」
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