『悪霊島』(81)(1990.2.10.)
思い出ぼろぼろ
この映画は自分にとって少々いわくのあるものとして存在している。というのもこの映画は学生当時のバイト先であった東洋現像所の技術検討試写会で見るはずだったのだが、ちょっとした事件に巻き込まれて見逃してしまい、以来、約10年たった今になってやっと見ることができたからである。
何故こんな思い出話から書き始めてしまったのかと言うと、この映画は主人公である古尾谷雅人扮する青年が、1980年のジョン・レノンの死をきっかけにして自身の最も思い出深い時代として70年代初頭を回顧する一種の青春ドラマとして話が進んで行く。
同じように自分自身の青春時代だった80年代初頭にこの映画が作られ、殺人ほど大げさではないにしろ、その後の自分を大きく変えるような事件が当時のわが身に起こっていたと90年代にいる今の自分は半ば懐かしく振り返れたからだ。つまり時代差や身に起きた事件の違いこそあれ、ある意味ではこの映画の主人公の心情に同化することができたのだ。
従って、 市川崑による金田一シリーズにあったようなユーモアのかけらも見られず、全く違う視点で撮られ、鹿賀丈史の金田一耕助像も石坂浩二ほどには好感が持てず、単に映画として見比べてしまえばあまり好きにはなれないのだが、映画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだりといった作業は、その作品の出来がどうあれたまたま何かのきっかけで自分史の中で妙に引っ掛かって忘れられないものとして刻み込まれてしまうものがある。その意味では、この映画を10年後の今、初めて見られたことが公開当時に見るよりも自分にとっては意味深いものとして感じられたのだろう。
そう考えると、映画を見るという行為はそれを見る時期や自分自身の状態によって、例えそれがどんなものであろうとその映画はある個人にとっては忘れられないものに成り得るのだし、それがまた映画を見ることの大きな魅力や要因になっているのだろう。あらら、全く見た映画から話が逸れてしまった。
ところで、この映画はジョンの死から始まり、途中で「ゲット・バック」が流れ、最後は「レット・イット・ビー」が流れて終わるのだが、80年のポール・マッカートニーの成田での逮捕、ジョンの死から10年。 まだ安心してはいないものの、ついにポールが来日公演を行うという時の流れが一層自分を過去の思い出に走らせてしまったのかもしれないという気もする。
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