『E.T.』(82)(1982.12.6.松竹セントラル)
珍しく映画を見る前にウィリアム・コツウィンクルの原作を読み、加えてマスコミの派手な前宣伝も手伝って予備知識バッチリで見たのだが、やはり圧倒されたし、感動に浸ることもできた。
原作との大きな違いは、やはり心理描写だろう。特に原作では母親の心理描写が見事だったのだが、映画はその点をあまり突っ込んで描いていない。それはスピルバーグが、このテーマをあくまでも子どもの目線から描こうとした結果なのだろう。
また、スピルバーグが描く家庭は総じて屈折しているのだが、その中に『未知との遭遇』(77)のメリンダ・ディロンとゲーリー・グッフィ、『ポルター・ガイスト』(82)のジョベス・ウィリアムズとヘザー・オルーク、そしてこの『E.T.』のディー・ウォーレスとヘンリー・トーマス、ドリュー・バリモアという、強い母親役と見事な子役という共通の流れを見ることもできる。
だが、時間がたつに従って「ひょっとしたら、この映画は、同種の『未知との遭遇』を超えてはいないのではないか」という気がしてきた。あまりにも一人の異星人の存在が大き過ぎるのである。
『未知との遭遇』に見られた人類と異星人との関係は、一種の神(と言うと語弊があるか)と人間のようにも見え、その中で、連帯や純粋さといったものを漠然と感じさせられて感動を覚えたのだが、この『E.T.』の場合は、スピルバーグの作為の方をより強く感じてしまう。
確かに、『未知との遭遇』の発想を突き詰めていけばこの映画にたどり着くのかもしれないが、あまりにも話が出来過ぎの感を抱かせる。それは、スピルバーグが数々のヒット作を作り出すうちに、「こういう場面を見せれば観客は喜ぶ、あるいは泣く」というタイミングやツボを自然に身に付けてしまったということなのかもしれない。
だが、『未知との遭遇』のラストで流した涙と『E.T.』を見ながら流した涙とでは明らかに質が違うとは自分でも思う。前者は何が何だか分からないうちに自然に泣けてきたのに、後者は「あー、俺は今泣いてるぞ」などと思いながら泣いているのである。
などと妙なことを書いたが、決してこの映画が嫌いなわけではない。こんな純粋な心根の映画は今やスピルバーグでなければ作れないだろうし、一見、子ども向けのSFのようなストーリーをここまで高めてしまうのだからたいしたものである。
だが、自分の中に『未知との遭遇』が占める割合が大き過ぎたためにどうしても見劣りがしてしまったのだろう。例えば、『E.T.』が『未知との遭遇』よりも先に作られていたら何の違和感も持たずに済んだのかもしれない。
By.the way.『未知との遭遇』の『十戒』(56)に続いて、この映画にはジョン・フォードの『静かなる男』(52)が登場する。映画狂スピルバーグの面目躍如といったところか。
【今の一言】スピルバーグと宇宙という点では、同時多発テロが大きな変化を与えたようだ。それが『宇宙戦争』(05)につながったのだ。
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