幻想小説・ラテンアメリカ文学の巨匠、ボルヘスの処女短篇集『伝奇集』と、それにつづく『エル・アレフ』の合本です。
生涯を通して、掌編ばかり書き続けたボルヘスの傑作掌編集となります。幻想文学だけあって、難解でかつ壮大、量子力学の本を読んでいるような気分になりました。
全体を通して、何が面白いのか理解しにくく、エッセイのような書評のような、それでいて、作者は小説だというものも多く収録されています。また、作者みずから、どうでもいい作品とか、読まなくて良い作品とか書いていて、読む気力を崩すような表現もあり、わたしの感覚としては理解できないところも多くありました。
その中で、有名な「バベル図書館」や「不死の人」などは、幻想文学の傑作と言える出来なので、そのあたりだけ抑えておくのも手です。
前作、『時間は存在しない』につづく量子力学最先端の本です。
前作より哲学的でわかりづらく感じましたが、もはや、物理学は哲学を補完するための学問であるということが分かりました。
天才物理学者と言われる著者ですが、哲学や文学の素養も十分で、古今東西のそれらを引用しながら、量子物理学を解説してくれます。
観察する者とされる者、つまり二つのものがあり、それによってすべては存在することになるというのです。
一つのものとして存在することはない。色即是空であるというのが量子力学。
例えば、時速5キロで歩いている人は、地面との関係で時速5kmであるけど、地球の自転を考えれば秒速400mくらいで移動しています。さらに太陽の周りを秒速20kmで回っていて、銀河の中心から見れば……
というように、速度も見る者が違えばすべて違って見えてきます。
前作の『時間は存在しない』では、地球の中心に近い足元の方が、頭より時間の過ぎる速さが遅いと指摘されていました。
この世に確かなものはなく、関係性がなければすべては空なのです。
普通に生きていく限り、考える必要もない量子力学ですが、これを知ってしまうと、小さなことは気にしない、大きなことも気にしないメンタルになれそうです。
一言で言うと傾聴の物語。
四十七歳で大手電機メーカーを退職した主人公が、不動産屋に就職し、取り壊される予定の骸骨ビルの住人を立ち退かせるために派遣されてきます。
戦前からある骸骨ビルは、一時的に進駐軍に利用されていましたが、そのあとは戦地から戻ってきた阿部轍正のものになり、そこに迷い込んできた戦災孤児たちを育てることとなりました。
今(平成6年)、ビルに住んでいるのは、成人して独り立ちした孤児たちと、阿部とともに孤児たちを育てた茂木という男です。オーナーである阿部は、死んでしまっていますが、孤児の一人である女性が性的虐待を受けていたと訴えたため、世間に叩かれ非業であったと言います。
茂木と他の孤児たちは、阿部の無実を晴らすため、骸骨ビルに残っているのでした。
主人公は、ビルの住人や周辺の人たちの信頼を得ながら、一人一人から話を聞き、それを記録していくのでした。
果たして、主人公は、茂木たちを穏便に退去させることができるのでしょうか。浮かび上がってくる真実とは。
奇妙な絆で結ばれた骸骨ビルの住人達とそれぞれの微妙に異なる見解がみごとに絡み合って、物語の完結へと導かれて行きます。
弱者とは善人である。
ここで言う弱者とは、「大衆」とほぼ同義語です。
弱者は、自分が弱いことを認めているにも関わらず、自責の念を抱かず、むしろ弱いことを全身で正当化するのです。
弱者は、自分の無能力を、無知を、惰性を、不器用を、不手際を、人間的魅力の無さを、卑下もせず恥じることもなく、これで良いのだと開き直り、「だからこそ、自分は正しい」と威張るのです。しかし、心の中では「卑下し、恥じているので」ちょっとでも強者が「貧乏人、無教養、無能」とでも匂わすような発言をしようものなら、突如、憎悪に顔を強張られ「絶対にゆるさない!」と心に誓うのです。
したがって、弱者は(本当のことを言われる)と声もでないほど驚くのです。
そして、弱者はのさばり反省することはないのです。
無能力を、無知を、惰性を、不器用を、不手際を、人間的魅力の無さを、少しでも責めたり、そんな視線に遭遇すると、その傲慢さ、見識のなさ、やさしさのなさ等を徹底的に責め立て、袋叩きにし、許さずに血祭りにあげる弱者とは大衆ののことなのです。
と、ニーチェやオルテガが言っているらしいです。
(ぼくが言っているのじゃないよ)
そのような畜群(其の対としての超人)の思想を抱く、ニーチェの人間性を考察して、その真の意味にせまります。
ユーラシア大陸をほぼ手中に収めたモンゴル帝国の元が日本に攻めてきた元寇。
蒙古襲来を題材にはしていますが、視点がユニークなため、その場にいたような緊迫感を味わえる構成になっています。
主人公は、千葉の片隅に住む孤児の漁師、見助です。
見助は、自分を拾い育ててくれた爺さんの葬式で、のちの日蓮上人となる僧に出会い心酔し付き人になります。日蓮は、念仏宗と対立し、このまま、念仏がはびこると国は内外から崩壊の危機を迎えるので、幕府は法華経に改宗すべきだと説きます。日蓮に対する幕府と念仏宗の迫害がひどくなり、草庵が焼き討ちされたとき、見助の機転で日蓮を脱出させて救うことができました。
見助は、かなを覚え、日蓮の信頼を得ることとなり、対馬へ行き、日蓮の眼耳となり外敵の来襲をしらせてほしいと命を受けます。
単身対馬へ渡る見助は、そこで13年の時を過ごしながら日蓮と文通をしています。ついに元の船団が対馬へ襲来して、親しくしていた人たちが皆殺しに会い、心を寄せていた女性も左手に穴を開けられ縄を通され連れ去られてしまいます。
見助は、ひとり山の中に用意していた隠れ家で、その一部始終を目撃するのでした。
その後、九州へもどり、防備の石築地の管理を手伝うことになります。
そして、再び、元がやってくる気配が濃厚になってくると再び対馬へもどり、狼煙台の番人となり、元寇へ備えるのでした。
このように主人公は、元寇の初めから終わりまで見る位置に置かれていて、見ていないところは、周りの人々から聞かされる立場にあり、それをまとめて日蓮に報告書を書く役目があるので、読者は、その場にいるように追体験ができる構成になっているのです。
主題は元寇でも日蓮宗のはじまりでもなく、見助の愚直なまでの師弟愛なのですが、それは読んでいただけると胸にせまるものがあります。