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償いの書(77)

2011年07月03日 | 償いの書
償いの書(77)

 笠原さんという女性から連絡がある。連絡をもらうまでは、もしかしたら頭の中から消えてしまっていた名前だ。消えるというのは言い過ぎかもしれないが、あえて思い出していろいろとこねくり回すということをしない対象だ。

 連絡をもらい、仕事を早めに切り抜け、ぼくは会いに行く。彼女は先輩の上田さんがいる職場で働いている。気転の利く賢そうな女性だった。そうだから曲がったことを許さなそうな一面も垣間見えた。彼女が交際している男性をぼくが紹介した。もちろん、そのこともたえず思い出している訳でもない。そうか、そういえば紹介したなぐらいの印象だ。それだからといって、責任がまったくないかといえばそうでもなかった。

「彼と知り合って、良かったです。プレゼントを何にしたらいいかと思って、選ぶのを付き合ってもらえます」という内容の電話からはじまった。
 夕方のデパートの前は人混みで混雑していた。バックや洋服を照らす明かりの前に彼女はたたずんでいた。
「待った?」
「ごめんなさい、急に呼び出して」
「ううん、たまには若い女性とも付き合いたい」
「そんなに、若くないですよ」
「そんなにね」

 笠原さんは困ったような表情をする。ぼくらはその表情を外に残したまま店内に入る。ぼくは裕紀の買い物に付き合うときはいつも別の場所で時間を過ごした。だから、女性の服が並んでいるところにずっといることはなかった。それで、笠原さんの気持ちも多少は分かった。男性の服や小物を選んでいるという状態に少しだけ耐えられないのだろう。

 シャツを見たり、ネクタイを見たり、財布の手触りを楽しんだりしながら、時間は緩やかに過ぎていった。店員はぼくらが交際していると勘違いして声をかけたり、やはり、他人であることを察して、笠原さんに、「どなたへ?」と質問したりした。その差をどう理解しているのかをぼくは考えた。ただ、それはキャリアの問題なのだろうか? それとも、人間としての勘の発達の度合いの違いなのだろうかと決められない問題をぼくはもてあそんでいた。

 結局は、シャツとネクタイを買った。ぼくのアドバイスがどう生きたかぼくは知らない。そもそも、彼がどのような色を好み、どのようなものが肌の色に合うのか分からなかった。ただ、ぼくは自分の好みを押し付けることだけは避けた。自分と同じような服を着ているひととすれ違うショックを逃れるためだろうか?

「ご飯ぐらい、いいですよね?」
 彼女は袋を手にし、その重みを計るようにぶらぶらさせながら上目遣いでぼくに訊いた。
「もちろん。そのつもりだった」
 ぼくらは駅前のロータリーを越え、ちょっと奥まった静かな場所にあるレストランに向かった。店内の照明は落とされ、ガーリックを炒めたような洋風な匂いがした。
「正直いうと、なぐさめるか、もしくは様子を伺うようにとも言われました」料理の注文を終え、少し寛いだ瞬間に彼女は言った。
「誰に?」
「上田さんに」

「何のこと? それより、ぼくと会うことも言ったんだ」
「彼といると、なんか隠し事ができなくなるみたいで。むかし、付き合っていたひとの旦那さんが亡くなったとかで」
「ああ、そのことか。もう何でもないよ」だが、そのことを他人の口からきかされると、ぼくの胸はうずいた。ぼくはずっと雪代の影響下で暮らすことになっているのだろうか、という心配も生まれた。
「でも、平気そうですよね。いつもと同じだった」

 スペインの国旗のような色合いのテーブルクロスを眺め、ぼくは自分の表情を考えている。そして、内面と外見の差異をひとはどのように感じているのかも案じようとした。そうするうちに料理は運ばれ、ぼくらは手や口を動かした。
「それより、高井君の話をきかせてくれよ。彼と知り合えて、良かったと言ってたね」

「ええ」と言って、口をナプキンで拭き、彼女はさまざまなことを話し出した。いったん、口が開けばそれは止まることを知らず、どんどんと流れ出すようだった。ぼくは、それを聞き恋のスタートの何たるかを知った。胸の高揚があり、多少の誤解と和解があった。新しい考え方に接し、それを吸収し変化する希望があった。ぼくは、そこにいない自分をなぜか恥じた。ぼくらは、もうそういうことを経験するには大人になり過ぎたようだった。ぼくらというのには、裕紀も含まれていた。そして、雪代はいつの日か誰か新しいひとを見つけ、そのような新しい希望を見出すのかと想像した。そして、ぼくの胸の中には小さな嫉妬があった。いや、嫉妬の手前のもっとわずかばかりの疑いの炎であったのかもしれない。だが、当然のことぼくが口を出せる問題でもなかった。

 ぼくは笠原さんを前にして、話題が仕事の話や上田さんの話にまで展開していることを知る。彼女といると心地良い感情が常にあった。彼女にはひとを和ます才能があり、ぼくは日頃のストレスが霧散していることにも気付く。いや、ストレスがあったことすら気付かないのだ。高井君もこのような状態を過ごしているのかと思うと、ぼくはそれにも嫉妬した。

 満腹になり、少しの酔いを抱え、ぼくらは店を出る。「今日は、ありがとう」という彼女の言葉がぼくの耳に残り、ぼくは吊り革につかまりながら、いま在るものと、むかしに無くしたものと、これから手に入れられるかもしれないいくつかのことを比較検討していた。
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