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償いの書(85)

2011年07月23日 | 償いの書
償いの書(85)

 裕紀は、学生時代に西海岸に留学していた。当初からのそれは彼女の希望だった。その機会を早めてしまったのには、ぼくが原因を作ったのかもしれない。自分の娘が裏切られたのを知った彼女の両親は、そういう方針をとった。だが、彼女はぼくを許す機会を作ろうと考えていたそうだ。ぼくは、ずっとひとから恨まれているという恐怖をもって生活していた。再会後、その気持ちを知りぼくは安堵した。安堵をして、それをきちんと結果として残そうと思い、結局は結婚に至った。

 彼女は手紙やたまには電話でそこのひとたちといまでもやり取りを交わしている。その当時、彼女はある家族と親しくなり、そこの家の10歳ぐらいの少女と交遊をもった。基本的に誰かを可愛がることが好きな彼女には、自然とこのようなことが転がり込んでくるようになっていた。その少女は20代の半ばになり、今度、結婚することが決まった。
「招待されたんだけど、行ってもいいかな?」

「もちろんだよ、こんな機会はめったにないし、ゆっくりと滞在してくるといいよ」
 何ヶ月か前に、こういう話し合いがあった。彼女のすました表情で写っている写真が貼ってあるパスポートをぼくは思い出している。それから、いくつかのその少女との思い出を教えてもらった。

 そこは他愛もないことが多い、10代後半の女性と10歳ぐらいの少女の話だ。映画を観に行ったり、ショッピング・モールで洋服を選んだり、その合間にアイスを食べたりした内容だった。だが、ぼくはそこに食い込めない思い出が詰まっていた。もし、仮にぼくらの交際があのまま続いていたとしても、ぼくは彼女と離れていた期間が挟まってしまう事実を知った。それならば、いまと同じような気持ちなのかと問えば、実際は多少の差異があるのだろう。離れてしまった人と、引き裂かれた関係というように。

 その日が近付くにつれ、彼女はメールで頻繁にやりとりをしている。英語で書かれた文章を彼女は訳す必要があるのか、それとも、そのまま受け止めているのかぼくには分からなかった。ぼくは、仕事でアジアのひととも連絡を取り合うようになっていた。違う言語を話す人たちだったが、目的は同じなので何とかクリアできていたが、それは目の前にいて、ということが前提条件になっていた。

 ある日曜だった。上田さんが空港まで送っていく、といってきかなかった。それで、ぼくの家の前まで迎えにきてくれた。裕紀のスーツケースは後ろのトランクに入れられ、上田さんの手がそれを閉めた。

「こういう風に、誰かをきちんと送ったり、迎えたりするのがオレは好きなんだ」と上田さんは笑いながら言った。智美もそれに同意した。ぼくと裕紀は後ろに座り、窓外の景色を眺めている。「近藤は、どうだか分からないけど」
「また、それですか?」と、うんざりしたように言う。
「裕紀ちゃんが、お前を許したのが、たまに信じられないんだよ」
「上田さんと、違う人間もいるんですよ」

「その話は、きょうは止めましょうよ」裕紀の悲しそうな顔を見たからか、智美は制止した。実際、このような条件で彼女は、15年近く前に旅立ったのかもしれない。ぼくは若く、自分の気持ちしか考えられなかった。あの過去の自分に、いまの自分が声をかけるとしたら、どうなるだろうかと想像した。結局は、若いんだから、やりたいようにすればいい、という結論かもしれない。無鉄砲な時期は、無鉄砲に過ごしたほうが良いのかもしれない。そう自分を正当化し、自分の冷酷ささえ励ました。大人になってから、無鉄砲になるより、余程ましかもしれなかった。

 ぼくらは空港に着き、ぼくは裕紀のスーツケースを引っ張っている。彼女は小さなバックのなかの荷物を点検した。パスポートや航空券が入っており、小さな鏡を取り出して、自分の目元を眺めていた。ぼくらはお茶を飲み、時間が来るのを待った。何日間か彼女はぼくから離れ、過去の自分と邂逅する。色褪せない思い出が詰まった町に行き、その当時に感じたことを思い出したり、忘れてしまったようでいてきちんとこころに残っているいくつかのことに気付くのだろう。何かを再燃させ、何かを葬るのかもしれない。それは、ぼくには分からないことだったが、ぼくにもそのような町や生活があの場所に残っていた。

 裕紀は華奢な腕時計を覗き込み、「そろそろ行かないと」と言って立ち上がった。ぼくはぎりぎりのところまで荷物を引っ張り、最後に彼女に手渡して、その代わりに手を振った。彼女は微笑み、ぼくはずっと前にこのように彼女をこころよく送り出すチャンスを逃した自分を恥じていた。だが、仕方がなかったのだ。ぼくは雪代の魅力に溺れてしまおうと決意していたのだから。

「できたら、電話かメールするね」
「ぼくのことは心配しなくていいから、楽しんできなよ」
「そうしなよ、こいつのことなんか忘れて」
「忘れられるわけないよ」

 ぼくと彼女が離れていた期間にぼくは寂寥のような気持ちをもっていたのも確かだ。自分は罪を犯し、若い女性を、それも受ける必要もない悲しみを与えてしまった。その彼女が恨み以外に自分に対して感情をもつことなどありえないと思っていた。だが、その期間にも、ぼくは彼女の胸のなかに眠っていた。だったら、この数日にもきっと居続けることは簡単なことであろうと予想ができた。

 ぼくは、空港の片隅で彼女を視線のなかから失い、見慣れたふたりの友人に囲まれている自分を発見する。