爪の先まで神経細やか

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償いの書(87)

2011年07月30日 | 償いの書
償いの書(87)

 仕事から帰宅して何日か振りに家の照明がついていた。そこには、裕紀がいることの証拠だった。ぼくは、握りなれたドアを開ける。
「お帰り」
「ただいま。どうだった?」家の中にはバックから出された荷物が広げられていた。
「楽しかったけど、やっぱり、少し疲れた」実際に疲れた様子がうかんでいた。「あの子、きれいな女性になっていた。今度、写真見せるね。帰りに写真屋さんに寄って、現像してもらうようにしたから」

 ぼくは、彼女をこのように目の前に見る喜びに打たれていた。いつか、若い彼女は遠くに行った。そこから戻ってきた瞬間も知らなかった。ぼくらには、思った以上の距離ができ、10代のままの彼女が最後の記憶になる可能性もあったのだ。だが、一度、彼女はニュージーランドに高校生のころ、旅行にでかけた。そこから戻ってきたときは、ぼくは何かプレゼントを貰ったはずだった。でも、それが何かは覚えていない。

「ひとりで、どうしてたの?」
「いつも通りだよ。仕事して、ご飯を食べて、少し飲んで、寝て」
「外食ばっかりだった? ごめんね」
「いや、会わなかった友人たちとも会えたし、裕紀も思い出が増えたんだろう?」
「うん」と言って彼女は急に抱きついてきた。彼女はたまに感傷的になった。「あんなに楽しい結婚式にでれてよかった」
「よかったじゃない。よかったよ」
「帰りに、途中の店で買ったものがあるから、用意するね」と言って、裕紀は荷物を放り出し、キッチンへと向かった。スイッチの何個かを触り、近くの明かりがついた。もしかしたら、そのスイッチが触られるのも何日か振りかもしれない。ぼくは、シャワーを浴び、頭を拭きながら冷蔵庫を開けた。急に冷蔵庫の中味が増えていて、それに驚きながらもビールの缶をとった。

 見慣れないものが皿の上に置かれ、テーブルに並べられていた。ぼくは、裕紀の声をきく。彼女の音域はぼくの耳に馴染んでいることを思い出す。この声が裕紀なのだ。もし、仮にぼくの目が見えなくなったとしても、この声で裕紀がどこにいるか分かるのだと思った。

「どうしたの、目を、つぶって」
「裕紀の声だなと思っていた」
「どうしたの?」ぼくのこころの変化に気付かない裕紀は怪訝な顔をした。もしかしたら、それも見慣れて、かつ、取り戻したい表情だったのだろう。

 ぼくらは面と向かって座り、会わなかった期間の話をした。もちろん、話題が豊富なのは裕紀の方だった。ぼくは、口をたべもので満たしながら、頷いてそれをきいた。友人たちもそれぞれ年を重ね、環境の変化があった。裕紀もぼくの写真を見せ、「マイ・ハズバンド」と言った。彼らはそれぞれ感想を言ったが、それはぼくとは別人のように響いた。スマート? ワイズ?

 食事も終わり、これも何日か振りに裕紀の身体を横に感じながら寝た。
「日本に戻ってきたとき、ぼくのことを思い出した?」
「今日? もちろん、仕事してるんだろうなと。朝、なに食べたかなとか」
「違うよ。もっと前の留学を終えたときに」
「どうだったろう。多分、思い出したんだろうね。いつか、また会うときがあるのかなとか、どんな20代で、いま、満たされてるのかなとか」

 ぼくは願えば、その日に戻れるような錯覚を感じている。鮭が源流に戻るように。ただ、ぼくは違った河上に向かっていたのだが。
「ひろし君は?」
「ぼくは会う資格がないと思っていたよ。長い間ね。それで、どっかで幸せを掴んでくれていればいいとでも」
「コンビニで会ったときも、だから、ずっと、気付かなかった」
「あれは、東京とこちらの会社に慣れるので精一杯だった」

 ぼくらには歴史が増えた。それは誰の目をも証拠にはしないが、確かにぼくらには新鮮で貴重なものだった。それを押し流されないように、重いものを乗っけて動かさないようにしたかった。話し足りないような気もしたが、彼女は疲れていたらしく、直ぐに眠った。ぼくは、彼女の寝息をききながら、いつの間にか夢の中にいた。ぼくは、その夢の中で10代後半だ。彼女はスーツケースを持ち、長い白い廊下を歩いている。急に離れた場所で振り返り、「待っててね、戻るから」と小さい声で言った。その距離は300メートルにも500メートルにも感じた。ぼくは何かを叫ぼうとするが、彼女の小さな声は届いても、ぼくの発する声は、無音でその無機質な廊下を揺らせることはなかった。その瞬間にぼくは慌てて、目を醒ます。すると、裕紀はベッドの端に座っていた。

「どうしたの?」
「時差ボケがあることを忘れていた。ぜんぜん、眠れない」
「そう、どうしよう」と言って、ぼくは彼女のパジャマの上から腿をたたく。
「とりあえず、横にだけなっとく」と言って、また身体をベッドの上にすべらせた。ぼくは彼女の身体を両腕で抱き、ぼくは逆にそれに安心して直ぐにまた眠ってしまった。
 次に起きたときは、ぼくの両腕のなかは空で、彼女は朝ご飯を調理していた。その匂いが懐かしいものに感じる。
「あれから、寝たの?」
「マイ・ハズバンドだけがすやすやと寝ていただけ」
「昼寝でもするといいよ」
「そうすると、また夜中も一晩中、起きてるよ」と言って、裕紀は楽しそうに笑った。
コメント
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