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償いの書(76)

2011年07月02日 | 償いの書
償いの書(76)

 長らく関係が途絶えた相手に連絡をするのは、多少の緊張が入り混じるものである。時間は移ろいやすく、思い出は後ろに行き勝ちであった。大人からは容赦なく時間を奪い、逆に子どもには時間を与え、成長を、急速な成長を促す作用があった。自分の思ったとおりの時間のゆったりとした流れなど、もう自分の手にはなかった。ただ、どこかへ流されてしまわないように、頑強な浮き輪を見つけるような工夫が必要だった。そこに、裕紀もつかまっているべきだった。

 前置きが長いが、ぼくは久し振りに松田に電話をした。長い時間がふたりには挟まっていた。だが、友人というものが存在するならば、それは、時間を度外視して瞬時に前の濃密な関係に戻れることではないのだろうか。

「出張して泊まったホテルで何気なくテレビをつけたら、あの子が出てた」
「そうだよ、頑張っているみたいだ。いつも汚れたユニフォームを抱え帰って来る。でも、こっちのことをひろしは、忘れてしまったのかと思った」
「そんなことないよ。たまには本社にも戻っているし」
「でも、会いに来ない」

「そうだな、ごめん。社長と飲んで、家族と会って、妹夫妻と子どもに付き合って、という感じで直ぐ数日は潰れてしまう」
「雪代さんの旦那が亡くなったことは、知ってる?」
「もちろん」
「きれいなひとだよな、いまでも」
「そうなんだろうね」
「いつか、家に遊びに来てくれたよな」
「あの子は、まだ小さかった」

「あいつもなぜだか不思議とそのことを覚えている。遠くにきかされた昔話の一部のように」
「そうなんだ。良かった」
「奥さんは?」
「元気だよ」
「子どもは?」みな、いずれはその質問をした。善意もなく悪意もなく。それは、お腹が空いた? と訊くようなものと同様なのだ。

「いない。彼女は子どもが好きなのに」
「ひろしだって、サッカー少年と遊んでいるときがいちばん楽しそうだった」ぼくは、そのときの情景を思い出している。それは色褪せることなく、歴史による風化などありえそうもなかった。
「楽しかった。ただ、楽しかった」
「そういえば、ひろしがバイトをしていたスポーツ・ショップの女の子、うちのと同じ高校にいるよ」
「そうらしいね。まゆみちゃんという名前」
「こっちにもお前の歴史がある」
「みな、覚えてくれてるのだろうかね」

「地元の人間は、みな温かいものだよ。また裕紀さんと来ればいいじゃない」
「そうするよ」
「ひろしとの思い出を大切にしている人間が何人もいる。もちろん、オレも那美もだけど」
「いまもサッカーを教えるのは楽しい?」
「いまでは、あいつの父という役割にもなってる。それで、子どもたちが尊敬してくれる面もある」ぼくは、そのような事態を考えてみる。あの人間を教えた人は、当然、自分も同じような境地に運んでくれるのだという信頼感を。
「理想的だな」

「まあ、家族とか人間とか、自分が思ってもみない喜びを与えてくれるものだよ」彼は、世界を信用している。そのような境遇をずっと過ごしてきたのではないのだろうが、そう受け止めている。ぼくは、雪代に不幸を浴びせた世間を少しだけ、許していないのかもしれない。彼女が不幸せになってもいいのだろうか?

「裕紀も充分、与えてくれてるよ」ぼくは、負け惜しみのようでいながら、惚気のようなことも言った。
「うちの小さな会社だけど、ひろしのところからも仕事を貰うようになっている」
「そうみたいだね。ぼくが入ったときは将来性もなかったのに、ただ、社長の人柄を信じて入っただけなのに、思ったより成長した」その言葉は自分でも意外だった。しかし、紛れもない本心だった。もし、仮に社長の人柄が分からなければ、ぼくはもっと数字などを考慮に入れて仕事を選んだのかもしれない。だが、数字以上のものを彼らはぼくに与えてくれた。

 それから、少しだけ那美さんに代わって話をした。彼女は雪代のためにぼくに悔やみのようなことを言った。女性的な同情がそこにはあり、自分の夫への忠節のようなしっかりとした気持ちがあった。ぼくは、裕紀が、ぼくのことをそこまで信頼しているかを心配した。そして、もう両親のいない裕紀の境遇を嘆いた。ぼくは、せめて長生きをして彼女を守り続けようと考えている。

 電話の主はまた松田に代わり、ぼくらはもう重苦しい話は避けた。ふたりで遊んだ幼少期の思い出を語り、息子の未来を話した。それは、ぼくと彼の思い出の追体験ともなった。

「ひろしと関わった人間は、うちの息子もオレも、まゆみちゃんという女の子もみな、幸せになっている。ただ、雪代さんだけが、幸福を逃しているのかもしれない」

 ぼくは、その彼の客観的な言葉に驚き、自分の責任もどこかにあるのではないのだろうか、と心配した。だが、彼女はそれに耐えられることも、ぼくは何の確信もなしに信じていた。ぼくは、そういう魅力のため、遠い日々に彼女を愛したのだ。強かったどう制御もできない好意は消えても、その信頼はずっと無くならないものだということをぼくは電話を手にして感じている。