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償いの書(86)

2011年07月24日 | 償いの書
償いの書(86)

 ぼくらは空港を離れ、また上田さんの車の後部座席に乗り、都心に戻ろうとしている。裕紀の乗った飛行機は太平洋を渡り、向こうの大陸に向かっている。だが、10時間近くは窮屈な姿勢でいることなのだろう。
「淋しい?」智美が訊いた。
「まあ、少しはね。だけど、その分、思い出が作られるわけだから」
「今日、別に用事はないんだろう?」
「ええ、とくには」
「笠原でも呼ぶか?」
「いいですね」

 だが、彼は車を走らせたままなので、そのような行動に移ることはなかった。途中で、高速を降り、昼食を食べてショッピング・モールのなかをぶらぶらした。なんの変哲もない日曜は過ぎていき、ぼくの横には裕紀がいなかった。それから、車に乗り、上田さんの家の近くまで戻ると、彼は車を置いた。そこから、夕方になった空気のなかを歩いていると、笠原さんが出て来た。
「あれ、いつ連絡したんですか?」ぼくは不意に打たれ、そう問いたずねた。

「さっきの買い物の途中に。こいつ、妻が旅行中の中年男性」と上田さんが笠原さんに向かって言った。
「こんにちは、そうなんですか。淋しい?」
「まあ、少しは。だけど、それほどでも」
「そればっかり。あそこでいい?」と、智美は上田さんに行く店のことをたずねた。彼は頷き、ぼくらは歩を進める。ぼくと笠原さんは用がなくてもたまに会った。裕紀もぼくらが会うことは嫌がらなかったからだろう。だが、上田さんの会社のひとでありながら、ぼくらは上田さんや智美を交えて会うことはしてこなかった。ぼくらの関係はなにかを介在にして保つという範囲から越えたからかもしれないし、別の要素があるのかもしれない。ただ、彼女といて流れる時間はとてもここちの良いものだった。

「裕紀さんはひとりで?」
「彼女は学生のときに留学して、そのときに親しくなった女の子が大人になって、今度、結婚することになった。それに出る」
「うらやましいですね」
「彼女は友情を必要としている」
「誰でもでしょう?」
「まあ、そうだけど。とくにという意味でね」
「なんで、留学したんですか?」
「それを望んでいたからだよ。もっと前から」
「だけど、近藤の浮気がばれて、ある日、突然にいなくなった」
「事実?」
「限りなく事実」

「上田さんが言う第三の女性ですね」ぼくは、そのことを考えている。彼女がもしかしたら主人公かもしれなかった。そして、島本さんがいて、ぼくが第三の男というように。
「でも、結婚している」

「そこが不思議なんだよ」上田さんはいまだに謎が解けない質問を浴びせられたような顔をしていた。「オレたち、ちょっと用事があるから、先に帰るね」と言って、上田さんと智美は消えた。ぼくは、その後ろ姿を目で追った。
「男性は、そうやって浮気をする?」

「ぼくの体験談では、どうやっても否定できないけど、すべてまじめな気持ちでもあった。実際、ぼくは裕紀のあとにその女性と長いこと、付き合った。離れている期間もありながらね」
「正当化しているみたいな気がしますよ。彼も浮気をするのかしら」
「された?」
「されてない」それは、強目の言葉だった。そして、断定的だった。だからといって、断定が世界を決めるわけでもない。ぼくは、彼女との会話を楽しんでいる。いくらか、若い気持ちを取り戻し、裕紀のことをすこし忘れた。それでも、彼女は、いまごろもう到着しているのだろうかと確認するために店の時計のほうに目を向けた。
「つまらない?」
「なんで?」
「時計をみた」
「いや、あいつ、向こうに着くころなのかなと思ってね」
「心配?」
「まあ、すこしは心配だよ。落ちる確率はすくないからといって、まったくないわけでもないからね」
「飛行機、怖いんですか、近藤さんは」
「怖くないよ。ただ、急になにかを喪失するのは怖いけど」
「経験した?」
「経験しない人なんて、逆にいるの?」

「さあ。次、飲んでもいいですか?」どうぞ、という風にぼくは手のひらを彼女に向ける。夜も酔いも深まり、ぼくはリラックスした雰囲気に放たれる。そして、幻影を見るかのように、裕紀の15年前を思い出そうとしている。彼女は旅立った。交際している少年は、ラグビーの準決勝を勝ち、意気揚々となっていた。全国大会も目前にせまり、そして、憧れをもっていた女性と会う。裏切りということが起き、そこからは疎遠になる。許す機会もなく、許されようと懇願する少年は遠くにいて、会うことはない。そもそも、彼は許されようと思っているのだろうか、わたしを本気で好きであったのだろうかと執拗に自分に問う。恨みは入り込む余地がなく、疑念だけが大きくなった。遊びに来た両親をその地で事故で失い、もどった東京で少年期を過ぎた男性と再会する。彼は、その女性と別れていて、わたしとの復縁を求めた。わたしは、それを許す機会と認めた。

「どうぞ!」という頃には店員が別のグラスを持ってきていた。
「え、なんかぼんやりとしてますね」
「酔ったかな。いろいろ、分からないかもしれないけど、むかしにした悪いことを反省する年代になった」
「遅すぎません?」
「遅すぎるかもしれないけど、自分には、このタイミングでしか考えることができなかったんだろう」
「グラス、空ですよ」
「グラス、空だね」ぼくは言われたままを復唱した。これからの何日間かひとりで夜を過ごさなければならない。ぼくはその予定を考え、どうやって埋めようかと思い当たる誰かの顔を探した。明日にでも、何人かに連絡をとって、すこし遠退いてしまっている友人たちを引き付けられるチャンスを作ろうとした。