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償いの書(84)

2011年07月22日 | 償いの書
償いの書(84)

 裕紀の兄には娘がいた。その姪っ子はピアノを習い、発表会があるらしく、彼女は叔母と聴きに行った。ぼくと彼女の家族との関係は、かんばしいものではなく、その理由は、ぼくが裕紀と別れ、その留学先に彼女の両親が遊びにいって亡くなったのが遠因だ。ぼくは不幸を導く原因を作り、それを気にせずその女性を妻に迎えた無責任で、無神経で、繊細さに欠ける人間という訳だ。はっきりといって自分をそう定義したことはなく、逆な人間だと思っているが、自分の幸福の追求に向け突進したことは否定できない。それで、ぼくらの間には疎通や交流もなかった。

 彼女は、それから帰ってきてその様子を話した。彼女も幼い頃、同じようにピアノを習っていて、その段階ごとに困難があることを説明した。しかし、ぼくは具体的にどういうものか分からず、その成し遂げた結果だけに興味があった。つまり、うまかったのか、もっと成長するのかというように。

 若い頃、ぼくらはデートをして、楽器屋のなかの鍵盤を裕紀は見事に弾きこなした。その手は繊細で、その当時、ラグビーで節くれだった自分の手が、その裕紀の可憐な指を握ったことを思い出している。ぼくは、そのことを話した。自分たちに甥や姪など存在することも信じられなかった時代。だが、時間は容赦なく過ぎていった。しかし、時間が解決することもないことがあり、それは最初に書いた通りだ。裕紀も当初は疎んじられたが、あんな馬鹿な奴となぜ、暮らせるのか、というようなことだが、そこは両親を亡くして残された兄弟ということで、いつしか修復に向かった。それは、望ましいことだが、ぼくはそこから追い出され、他人のような関係のままでいた。それは淋しさというものではなく、指にとげが挟まったままというような状態だった。

 ぼくを慕ってくれる甥もいたし、無防備に親しくしてくれる友人もいた。彼らは大切な存在だが、近くなりたいひととはそのままの距離でくっつくことはできなかった。ぼくは、それでも良かったのだが、裕紀が淋しがっているかもしれないと思うといくらか憂鬱だった。もちろん、そのことを絶えず考えているわけもないのだが。

 職場からカバンを持って、外出しようとしている。そこで、ある女性に会う。
「待ち合わせ?」彼女は、なにか違ったものが見える能力を持っていた。だが、ぼくのそのときの様子をみたら、誰もが仕事で外出する格好なので、その質問につい笑ってしまった。
「ええ、仕事で待ち合わせです」
「なんか、軽やかな気持ちみたいね」
「そうですか」ぼくは、彼女が連れている犬を撫でる。それに応じて、その犬は尻尾を振った。
「奥さんには音楽が流れているようね」
「家でも、いつも音楽をかけてます。ぼくが買ったステレオは彼女のものになっている。それに、家族にはいくらか音楽の才能らしきものがあるみたいですね」
「よく知らないような言い方ね。仲良くしたいのに?」
「さあ、どうかな」ぼくは、自分に言い聞かせるようなつもりだったので、言い方がぞんざいになった。
「川の向こう岸を歩いているひとが見えている」

「そうですか」ぼくは、時計を見て、「じゃあ」と言って小さく会釈してその場を引き去った。

 向こう岸を歩いているのは誰かをぼくは頭の中で探ろうとした。それは、裕紀の兄のようでもあった。だが、逆にこちらにいるのは自分だけだったのだろうか? そこに裕紀は居続けるのかを確認した。ぼくは、撫でた犬の感触を思い出し、その手が電車の吊り革という無機質なものを握っているのを感じた。

 ぼくは新しいマンションの一階部分の店舗をすすめるために言葉を尽くして説明する。その説明に興味や関心があるひとびとの表情として生まれる楽しみを知る。そういう機会が裕紀の兄ともできればよいが、ぼくは、しかし、うまく説明できないことも知っている。ぼくは、10代後半のイノセントであった裕紀を捨て、彼女はのちのち留学する予定はあったのだが、それを早め外国に旅立った。ぼくは、それで自由になり別の女性に走った。その兄から見れば、ぼくは確実に有罪であり、酌量の余地はなかった。簡単にいうとぼくの物語は、こういうことなのである。その女性と再会して、ぼくは妻にした。その間に彼女は両親を亡くし、ぼくは別の女性との楽しい思い出を作り、その関係を失った。だが、どれも自分には必要であったことを知る。ぼくには雪代と過ごした生活が自分にとって掛け替えのないものであったことを知っており、それがなかったら、どれほど自分の人生は無価値になるものだろうということを焦燥をもって感じている。

 ぼくらは、握手をもって仕事の話を終える。それからは、彼の家族の話をする。ぼくらは同年代なのだ。野球をしている少年の父の一面がでてくる。彼の日曜日をぼくは頭のなかでイメージする。Yシャツは剥ぎ取られ、ネクタイも消えた。少年に歓声をおくる姿。それをぼくは見たような気がする。そのために雑な仕事はできないことに気付く。もちろん、いままでもしていないが、より一層にという意味合いで。
コメント
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