爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

償いの書(80)

2011年07月11日 | 償いの書
償いの書(80)

 松田の車の助手席には荷物が乗っかっており、ぼくと裕紀は後部の座席に座った。
「今日の試合、良かったね。パス回しも良かったし、何より躍動的だった」ぼくは、率直な感想を言う。
「オレが、小さいときに教えた子たちも多くいるんだぜ、自慢じゃないけど」

「自慢にきこえるよ」そうからかったが、ぼくは彼の小さな歴史をうらやましく感じる。ぼくは東京に出てしまったことで、ここでの暮らしの歴史が途絶えてしまった。もし、そのままいたらぼくにも彼のようなひととの触れ合いを通しての歴史があったのかもしれない。だが、それは裕紀と再会しないことを意味しており、やはり、そればかりはぼくに考えられない運命の力が働いているのかもしれなかった。

「彼は、いつもここでの生活を懐かしんでいる」と裕紀も言った。
「そんな風に見えてる?」
「うん。わたしの知らない思い出を大切にしているときがある。それに入り込めないときもある」
「まあ、裕紀ちゃんもこっちにちょくちょく来て、思い出を作るといいよ。裕紀ちゃんのファンはたくさんいる。ひろしの人気より大きい気がする」

「事実かもしれないね」ぼくは、そう言ったが、ぼくをきちんと正当に受け止めてくれる人の顔が脳裏にたくさん浮かんだ。
 車は直ぐ彼の家に着いた。ぼくがむかし訪れた小さなアパートではなく、きちんとした一軒家だった。家の前の駐車スペースに車を停め、玄関から那美さんが顔を覗かせた。

「いらっしゃい」と言った顔が、満ち足りた人間の表情の見本のようなものだった。ぼくと裕紀は松田から背中を押され、なかに入った。そこには高校生の汚れたスニーカーがきれいな掃除の行き届いている玄関や前の敷地と対照的に置いてあった。それは、ぼくの家に戻ったような錯覚があった。ぼくの家もまだ、ぼくが学生時代のときはこうだった。
「散らかしてるけど」と、松田は言った。

「私たちの家は、散らかしてしまう人間もいないから。育ってしまう前は大変だったでしょう?」と、裕紀はあることを思案しているような顔で言った。
 ぼくらは、リビングの椅子に座った。寛いでいる間に那美さんは料理を運んだ。それを裕紀も手伝った。ぼくと松田はビールを飲み始め、思い出話を語った。そこには、ある友人たちの現在の生活の解説があった。それぞれが苦労をしながらも、懸命に生きている証拠があった。何かを叶えた人間もいれば、何かを失った人間もいた。失ったことを乗り越えるひともいて、希望を捨てないひともいた。ぼくは、この町での思い出を、そのように新たな情報で更新しようとしていた。
 料理が並ぶと、階段を降りてくる青年がいる。

「あ、近藤さん、こんにちは。裕紀さんも」と彼は照れたような様子で会釈する。「ぼくのこと、覚えてます?」
「当たり前だよ。まだ、小さな男の子だったけど、この前、出張先でニュースを見て、驚いた。あの子が、こんなになったのかと」

 その成長を証しするように彼の食欲は旺盛だった。一段落つくと、ぼくらはまた会話を楽しむようになる。まもる君も確かな受け答えをする人間になっていた。躾の仕方が良かったのかまじめな男の子だった。
「好きな子とかいるの?」裕紀は、からかうように訊いた。
「それは、いますけど。裕紀さんはどうでした?」
「わたしは、この通り、ひとりの人間しか信頼して来れなかった融通の利かない人間」
「うらやましいですね」
「どっちが?」那美さんは付け足すように訊く。

「どっちも。どっちも」彼は同じ言葉を2回、つぶやいた。「ひろしさんも、そうでした?」
「それは、あんまり訊いちゃいけない質問なんだよな」酔ったのか、松田はそう言った。そして、まもる君も口をつぐんだ。それは、あとで確かな証明になった。彼の成長を見るため、ぼくらはアルバムを見せてもらった。最近の様子から、段々とさかのぼるうちに、彼の写真のなかにぼくも登場する。その横には雪代が写っていた。以前のまだ小さなアパートにぼくらはテーブルを囲むような姿でいる。裕紀が皿洗いを手伝っている間にぼくはそれを見て、「あまり、よくないな」と、ひとりごとのようにささやきながら、そのアルバムだけを遠くに置いた。しかし、ぼくにはそのときの自分の幸福そうな表情と、不幸を知らないままの雪代がいることが刻み付けられた。ぼくが、ここで残した最大の思い出が、その中の一枚にあるようだった。それは揺るぎのない証拠だった。

 食事も終わり、後片付けもあらかた済み、コーヒーとともにケーキを食べた。裕紀のことを好きになる人が次第に増え、彼女と接すれば当然のことなのだが、最後には、まもる君も自分の恋愛相談のようなことを彼女にしていた。彼女は大恋愛を何回も繰り返したわけではなかった。そのもつイメージがたくさんのことから得られた情報ではないが、訊いている彼にとって深みのある回答が得られているようだった。ぼくらから少し離れたソファの上で、ふたりは寛いだ様子で話していた。

 松田はいつの間にか眠ってしまい、ちいさないびきをかいている。

「あまり飲まないけど、飲むといつもこうなるのよ。まもるにベッドに運ばれている」とその後の成り行きを那美さんは話した。
「東京に来たら、うちに遊びに来なさい」と最後に裕紀は、青年に言った。彼はただ男らしく頷いただけだった。ぼくらは那美さんの運転する車に乗り、泊まっているホテルまで送ってもらった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする