償いの書(81)
ぼくらは日常に戻る。仕事をして、休暇には映画を見たり、日帰りの旅行をしたりした。ぼくは裕紀の手の平の温度を知り、爪の色が変わるのを眺めた。ときには、水色の日があり、茶色の日もあった。同じ速度で年を取り、それだからこそ大幅な変化には気付かず、些細な小さな変化には敏感だった。人間とは不思議なものだ。髪の長さが変わり、洋服の厚さが変わった。再会してから7、8年が経とうとしている。ぼくの給料もいくらか上がり、その分、面倒を見る後輩ができ、責任も増えた。それも、毎日のかすかな変化のため、重圧とまではいかなかった。
裕紀は、自分用の机の上に仕事の資料を積み重ねている。その厚みは増えることもあり、減ることもあった。ぼくはそれを手にすることはなかったが、たまに確認のため横目で眺めた。必要以上に、また過度に疲れるようなことはしてもらいたくなかった。いつも、彼女には元気でいてもらいたかった。ぼくは、若い頃に彼女を悲しませてしまう原因を作ったのだ。そして、ある日、今後はそういうことを少なくしてもらうようなにかに誓ったのだ。その誓いを破るようなことはできなかった。だが、当然のようにたまにはした。
「お店の場所を変えたいと思っている」と、筒井さんという女性は電話で言った。「最近、ここが子どもっぽい場所にかわってしまい、そのことを私たちは嘆いている」セリフのような口調で彼女は言った。
「少し、お時間をください。気に入ってもらえるところを探してみます」
ぼくは、そうきっぱりと言った。ぼくと彼女は島本さんを介在にして出会った。ぼくは、筒井さんと彼の死を弔うような形で寝た。その前にもそういう関係を持ったが、あの日以来、ぼくらは離ればなれになった。ぼくは島本さんと関係のあるものに魅力をつい感じてしまうのだろうか? そうすると、島本さんから隔たってしまった彼女には興味を抱けないのだろうか? そのような取り越し苦労をぼくは店舗を探しながらも考えていた。
筒井さんは画廊を開いていた。中国のどこかの都市を描いたような絵が前にあった。ある少女の横顔が半永久的に幼さと大人の微妙に入り混じった表情で描かれているものもあった。それは、不思議と裕紀の高校生のときの顔と似ていた。それで、印象がつよく残っている。
ぼくは、いくつかの鍵を持ち、駐車場に向かった。最近は会わなかった犬を連れた女性がそこで座ってタバコを吸っていた。
「行儀が悪くてごめんなさいね」
「いいえ、とても素敵に見えますよ」
「誰かが死んだみたいね。体力のありそうな男性で」
「さすが。その通り」
「間違いを犯す人間」
「どういう意味で?」
「選択の善し悪しを判断できないという意味で」
「それが、人間でしょう」
「そうよ、近藤さんも人間。わたしも人間」
「哲学的ですね。待ち合わせに遅れるとまずいので、失礼します。もっと、哲学を討論したいですけど」とにこやかな表情を作り、ぼくは言った。
間違いを犯す? それは、雪代を選ばなかった自分か。いや、雪代を選び、裕紀を捨ててしまった自分か。筒井さんとの関係を選んだ自分か。死を求めた島本さんか。答えはいくらでもあるように思えた。
車を走らせた後、コイン・パーキングに入れ、筒井さんの今の店に寄った。彼女に惹かれた自分は一時のことだと認識していたが、それは間違いだった。彼女はさらに魅力的な女性に変貌していた。
「どうかした? 死んだのは私ではなく、島本君よ。死んだひとを見つけたみたいな顔」
「いや、そういう意味じゃなくて」ぼくは店内を見回した。いまが完璧な場所で、ここ以上の場所はないようだった。それぐらい、美というものに包まれている雰囲気があった。「ここ以上のところを探すんですよね」ぼくは急に弱気になった。
「外を見て。ここのお客になるような人が歩いている?」
「そういわれると、そうですけど。でも、画廊に入るようなひともしらないですからね、正直言うと」目をあちらこちらに向けると、裕紀に似た少女の肖像がまだあることに気付いた。「あれ、まだあるんですね」
「可愛い娘。ああいう女性はどういう大人になるのかしらね。良い場所をみつけたら、あれ、上げる。ずっと、売れ残ってしまっている」
「そうですか、嬉しいですね。頑張ります」
ぼくらは車に乗り込み、数軒の場所を見て廻った。筒井さんの気に入った場所は直ぐに見つかり、ぼくはあの絵を手に入れることができた。彼女にぼくの住所を教え、送ってもらう手筈になった。裕紀がそれを開けて見た瞬間をぼくは思い浮かべ、そして微笑んだ。
「会社に戻る?」
「車を乗りっぱなしなので、一回、帰ります」
「そう。新しい店のために祝ってくれると思った」
「じゃあ、今週の金曜はどうですか? その日は予定がないので」
「ありがとう、じゃあ、その日に」
ぼくは車に乗り、間違いを犯す人間という言葉のエコーをきいた。ぼくが、その間違いのもとであり、筒井さんも共犯者だった。そうなるのを知っており、また望んでおり、裕紀の悲しむ姿を思い浮かべた。だが、ぼくは裕紀の顔を思い出しているのではなく、イノセントなさっきの絵のほうを思い浮かべているようだった。
ぼくらは日常に戻る。仕事をして、休暇には映画を見たり、日帰りの旅行をしたりした。ぼくは裕紀の手の平の温度を知り、爪の色が変わるのを眺めた。ときには、水色の日があり、茶色の日もあった。同じ速度で年を取り、それだからこそ大幅な変化には気付かず、些細な小さな変化には敏感だった。人間とは不思議なものだ。髪の長さが変わり、洋服の厚さが変わった。再会してから7、8年が経とうとしている。ぼくの給料もいくらか上がり、その分、面倒を見る後輩ができ、責任も増えた。それも、毎日のかすかな変化のため、重圧とまではいかなかった。
裕紀は、自分用の机の上に仕事の資料を積み重ねている。その厚みは増えることもあり、減ることもあった。ぼくはそれを手にすることはなかったが、たまに確認のため横目で眺めた。必要以上に、また過度に疲れるようなことはしてもらいたくなかった。いつも、彼女には元気でいてもらいたかった。ぼくは、若い頃に彼女を悲しませてしまう原因を作ったのだ。そして、ある日、今後はそういうことを少なくしてもらうようなにかに誓ったのだ。その誓いを破るようなことはできなかった。だが、当然のようにたまにはした。
「お店の場所を変えたいと思っている」と、筒井さんという女性は電話で言った。「最近、ここが子どもっぽい場所にかわってしまい、そのことを私たちは嘆いている」セリフのような口調で彼女は言った。
「少し、お時間をください。気に入ってもらえるところを探してみます」
ぼくは、そうきっぱりと言った。ぼくと彼女は島本さんを介在にして出会った。ぼくは、筒井さんと彼の死を弔うような形で寝た。その前にもそういう関係を持ったが、あの日以来、ぼくらは離ればなれになった。ぼくは島本さんと関係のあるものに魅力をつい感じてしまうのだろうか? そうすると、島本さんから隔たってしまった彼女には興味を抱けないのだろうか? そのような取り越し苦労をぼくは店舗を探しながらも考えていた。
筒井さんは画廊を開いていた。中国のどこかの都市を描いたような絵が前にあった。ある少女の横顔が半永久的に幼さと大人の微妙に入り混じった表情で描かれているものもあった。それは、不思議と裕紀の高校生のときの顔と似ていた。それで、印象がつよく残っている。
ぼくは、いくつかの鍵を持ち、駐車場に向かった。最近は会わなかった犬を連れた女性がそこで座ってタバコを吸っていた。
「行儀が悪くてごめんなさいね」
「いいえ、とても素敵に見えますよ」
「誰かが死んだみたいね。体力のありそうな男性で」
「さすが。その通り」
「間違いを犯す人間」
「どういう意味で?」
「選択の善し悪しを判断できないという意味で」
「それが、人間でしょう」
「そうよ、近藤さんも人間。わたしも人間」
「哲学的ですね。待ち合わせに遅れるとまずいので、失礼します。もっと、哲学を討論したいですけど」とにこやかな表情を作り、ぼくは言った。
間違いを犯す? それは、雪代を選ばなかった自分か。いや、雪代を選び、裕紀を捨ててしまった自分か。筒井さんとの関係を選んだ自分か。死を求めた島本さんか。答えはいくらでもあるように思えた。
車を走らせた後、コイン・パーキングに入れ、筒井さんの今の店に寄った。彼女に惹かれた自分は一時のことだと認識していたが、それは間違いだった。彼女はさらに魅力的な女性に変貌していた。
「どうかした? 死んだのは私ではなく、島本君よ。死んだひとを見つけたみたいな顔」
「いや、そういう意味じゃなくて」ぼくは店内を見回した。いまが完璧な場所で、ここ以上の場所はないようだった。それぐらい、美というものに包まれている雰囲気があった。「ここ以上のところを探すんですよね」ぼくは急に弱気になった。
「外を見て。ここのお客になるような人が歩いている?」
「そういわれると、そうですけど。でも、画廊に入るようなひともしらないですからね、正直言うと」目をあちらこちらに向けると、裕紀に似た少女の肖像がまだあることに気付いた。「あれ、まだあるんですね」
「可愛い娘。ああいう女性はどういう大人になるのかしらね。良い場所をみつけたら、あれ、上げる。ずっと、売れ残ってしまっている」
「そうですか、嬉しいですね。頑張ります」
ぼくらは車に乗り込み、数軒の場所を見て廻った。筒井さんの気に入った場所は直ぐに見つかり、ぼくはあの絵を手に入れることができた。彼女にぼくの住所を教え、送ってもらう手筈になった。裕紀がそれを開けて見た瞬間をぼくは思い浮かべ、そして微笑んだ。
「会社に戻る?」
「車を乗りっぱなしなので、一回、帰ります」
「そう。新しい店のために祝ってくれると思った」
「じゃあ、今週の金曜はどうですか? その日は予定がないので」
「ありがとう、じゃあ、その日に」
ぼくは車に乗り、間違いを犯す人間という言葉のエコーをきいた。ぼくが、その間違いのもとであり、筒井さんも共犯者だった。そうなるのを知っており、また望んでおり、裕紀の悲しむ姿を思い浮かべた。だが、ぼくは裕紀の顔を思い出しているのではなく、イノセントなさっきの絵のほうを思い浮かべているようだった。
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