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償いの書(83)

2011年07月18日 | 償いの書
償いの書(83)

「あれ、裕紀じゃない。わたしたちが初めて会ったころの」うちに遊びにきた智美は驚いたように言った。
「わたしのおばも見て直ぐにそう言った」
「どういった経緯で手に入れたの?」
「結婚記念日のプレゼントとしてわざわざ誰かに描いてもらったのかと思っていた。これが偽の情報」
「本当のことは?」
「ひろし君のお客さんで画廊のひとがいるらしく、そこに置いてあった。亡くなった島本さんのお友だち」
「まだ、付き合いがあるの?」上田さんも驚いたように言った。
「どこかで偶然に会ったんですよ。な、裕紀?」

「そうか、あのひと」裕紀はふと、思い出したように言った。
「いま、島本さんの友だちって言ったじゃん」ぼくは確かめるように訊く。
「あ、なんかつながっていなかった、ふたりが、そうか」と自分で納得させるかのように、その後の言葉をのんだ。
 ぼくらの家の壁に一枚の絵が飾られ、それが不思議な影響を及ぼしていく。みな、それを見ると過去の裕紀を思い出し、ぼくらの親しかった関係にも思いが移り、それが途切れたことは思い出していながら口に出さないようだった。そして、愛らしい絵のような女性と離れることができる人間への理解が許容の範囲外であるようだった。

 その絵の確認が目的のような一日だった。ぼくは嘘を通して、わざわざ誰かに頼んで描かせたという別のストーリーに魅力を持った。しかし、すべては偶然だったのだ。ぼくと島本さんがある日、東京のどこかでばったりと出会い、その連れの女性を顧客にすることができ、彼女の画廊にその絵は残り、ぼくは裕紀かもしくは自分のためにそれを入手した。どこかで、なにかが狂えば、それはすべてぼくからもぎ取られるような印象がかすかにだがあった。島本さんがいなくなったことを今更ながら蒸し返し、それにいちばん痛みを持つであろう女性のことを想像した。絵への関連で思考は別のところに飛躍した。

 ぼくらは、ぼくの家から出て、駅に向かった。あるデパートの屋上でイベントがあった。ハワイや沖縄やラテン音楽を演奏する企画だ。それを上田さんから聞き、ぼくらはそこに向かった。

 太陽の日射しが強い頃で、ぼくらは大きな日傘にかくれて太陽をさえぎった。
「笠原と、たまに会うんだろう」上田さんはぼくに問いかける。
「妹の代用ですかね。いつまでも、ああいう子の挙動を心配してしまうようなところがあって」
「年上に甘えてしまうようなところがあっても」
「人間って、一元的なものじゃないですから」
 そこには、裕紀と智美はいなかった。飲み物を買いに行っていた。
「おかしなことはしない?」
「もうずっとしてないです。上田さんは?」
「オレも余裕がない」
「余裕の問題じゃないと思いますけど」

 そこにふたりが帰ってきた。涼しげな色のものや、中味は分からないけど、琥珀色のようなものが混じり合って、その上にストローが挿されていた。ぼくは、普通にシンプルなビールを飲んだ。それは、日曜の午後を彩るにはもってこいの雰囲気と音楽だった。世界は幸福に満ち、愛すべきひとが横にいた。警戒することもない親しい友人がいて、その妻は陽気でいることを世界に誓ったような女性だった。

 ぼくらは音楽が高揚させた気持ちでそこにいた。大事な話ではないかもしれないが、必要な会話をかわした。裕紀はぼくと家にいるときよりも、数倍はしゃぎ、彼女のもっている特性をさらに花開かせるようだった。
「あの画廊の女性は、わたしを見る目が冷たかった」音楽が一段落すると、裕紀は思い出したかのように言った。「あのひとの目、怖かった」

「裕紀ちゃんが可愛いからだろう。無邪気で、な?」上田さんはぼくの方に視線を向けて、次の言葉を促した。
「ぼく、だけど、覚えていない」
「そういうトンチンカンなところがあるのよ、ひろしには」智美の顔はすこし紅潮し、目も潤んで見えた。
「なにかを奪うことを目的にしているような目」
「それは、裕紀とは違うよ。優しさに溢れた人間とは」智美がそう付け足す。
「わたし、優しくないよね、ひろし君。いつも。ときには、いらいらするし」
「誰でもいらいらするよ。とくにこいつとなんか住めば。オレも融通の利かない後輩が入ってきた日を覚えてるよ、いまだに」ぼくは、笑った。

「裕紀はぼくが会った中で誰よりも優しい人間だよ。じゃなければ、一緒にならなかった。いまも、それは続いている」そう言うと、ステージの調整も終わり、次のバンドが出て、演奏を開始した。それは、レゲエのリズムを代用した歌謡曲のようなものだった。だが、真摯な音楽を求めていない今の気分には不思議とマッチした。

 ぼくは、その心地良く崩れるような神経のなかで、ぼくに優しくしてくれたひとたちの瞬間を思い出すことになる。
 裕紀は存在そのものがそうだった。もちろん、後輩の面倒を見る上田さん。その父である世話好きな社長。雪代とぼくが最初に会ったときに手渡してくれたジュースの感触。最後には、そこに戻った。優しさとは無縁な関係であるしかなかったぼくと島本さんのずっと続いた関係。それも、途切れてしまった。途切れそうにもないレゲエのリズムのなかにぼくはとどまり、終わってほしいことや、終わらせたくもないのにピリオドが打たれたいくつかのことに思いを逸らせていった。


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