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償いの書(78)

2011年07月09日 | 償いの書
償いの書(78)

 ぼくは、また特急電車に乗り、本社に戻ろうとしている。今回も週末を絡め、裕紀は自分の仕事の書類を手渡した後、遅い電車でやってくる計画になっている。それで、実家に泊まることはせず、ホテルを予約した。彼女が気兼ねしないようにと気を使った。なぜか、最近、疲れた様子を見せるようになった彼女を心配している。それは、いつもということではないが、周期的に訪れるようだった。

 仕事を終えてホテルに入ると、彼女は部屋のなかのベッドで寝ていた。いや、眠りから覚めたあとで、横たわっていた。
「どうした、疲れた?」
「いいえ、大丈夫だよ。なぜか、電車で眠れなかったし、昨日までの仕事がたたったみたい」
「社長に誘われたんだけど、ご飯を、断ろうか?」
「ううん、寝たら大丈夫になった。行こう」
 ぼくらは着替え、ホテルの鍵を受付に預け、そして、出掛けた。

「この夜の空気、ひさしぶり」彼女はこの土地で18年間過ごした。最後の2、3年をぼくは知っていた。それ以降、ぼくは彼女を失い、別の女性とこの町で過ごした。ぼくには甘美過ぎる思い出がたくさんあった。それゆえに懐かしさを通り越し、もっと自分に接近し身近なものに感じている。懐かしいという感慨は裕紀ほどには持っていなかった。

「こんばんは、久し振り、裕紀ちゃん」社長にとって、他人との境界というものはないらしく、直ぐ、その場で相手の懐に飛び込んだ。彼こそがラグビー選手のようだった。

「いろいろとお世話になっています」と、裕紀はすました表情で言った。こういったときに幼少のしつけのよさか彼女はいつも丁寧な対応ができた。それをぼくはよそよそしく感じるときもあり、また、感心することも多かった。

 社長は裕紀を相手にしゃべり、あまり言ったこともないがぼくの仕事ぶりをほめてくれた。そして、自分の息子の嫁と裕紀の交友のことを訊きたがった。ぼくは、自分も同じ家に住みながら知らない裕紀の一面に気付く。彼女の考え方や、物事の捉え方が社長の質問と相槌で自然と浮かび上がった。
 裕紀は酔いと疲れが混ざった様子を見せたのでそこを早めに切り上げた。眠る前に、
「明日、どうする?」という問いの答えをぼくは聞く。
「ここに、来る前に兄と会って、前の家の鍵を借りたので、行ってみる」
「じゃあ、その前に実家に寄って、車を借りてくる」
「もちろん、私もいくよ、あいさつしないと」

 翌朝、目を覚まし、ふたりで電車を数駅分だけ乗った。実家に寄り、世間話をした。ぼくの家族は裕紀のことが好きだった。だが、その愛情は、ぼくが彼女を捨てるようなことをした分だけ、正常なかたちでは表現されず、いくらか差し引かれた。息子の不義理を彼らは自分のことのように恥じていた。それは、裕紀がぼくを許していても変わらず、逆に許した分だけより一層、留まっているようだった。

 たまに彼女も、「ひろし君の家族はわたしに対して詫びるような気持ちがあるみたい」と言った。「わたしが気にしていないにもかかわらず」と淋しそうな表情を見せた。ぼくはその言葉に対して返答する覚悟も勇気もなかった。ぼくも、その両親の表情を見て、自分の過去の罪を思い返すのだ。そして、償うという行為も思い知らされるのだった。

 ぼくらは車を出し、目的地に向かった。道路や風景はいくつか変わってしまったが、ぼくらふたりの気持ちのなかにある原風景は描きかえられることはなかった。

「お兄さんは、どうだった?」ぼくは、彼らと会う権利を有しておらず、その様子を又聞きするしかなかった。
「さあ、最近はちょっと穏やかになったみたい」
「鍵も貸してくれたんだ」
「うん」と言って、彼女はぼんやりと外を見ていた。あっという間に目的の場所に到着する。彼女は門を開け、玄関の鍵を開けた。ぼくは、そのまま横から庭に抜けた。高台にあるその場所は眼下を一面に見渡せた。ぼくの気分はそこにいると直ぐに晴れた。

「ここ、覚えてる?」後ろから窓を開けた彼女がぼくにたずねた。ぼくは振り向き、少し上にある彼女の顔を見上げた。そこには不安気な表情があった。
「もちろんだよ、忘れることなんてできないよ」それは真実の言葉だった。ぼくらは、まだ17歳ぐらいだった。はじめてぼくは女性の身体を知り、彼女もそうだった。その場所がここだった。ぼくは、それから何人かの女性と親密な関係をもったが、あの最初の幸福感を忘れることはできなかった。そして、したくもなかった。

「そう、よかった」と言って彼女は目を閉じ、ぼくらは唇を重ねる。あれから、倍近くの年齢になり、ぼくらはまたここを再訪した理由と意図を探そうとしている。ぼくらには固い絆があり、何事もそれを離れさすことはできないという宿命にも似た気持ちがあった。いまの彼女は、そのような感情を求めているのだろう。ぼくもそれに意義はなかった。

 裕紀はコーヒーを入れ、ぼくらは縁側にすわり、それを飲んだ。ぼくは、彼女を失っていた月日を考えている。ぼくのことを思い出す日々があったのかということを夢想したが質問は避けた。ぼくは、彼女がぼくを思い出す場合には恨みしかないと脅えていたのだ。別の女性の胸に走った情けない男と定義して。

 だが、ぼくらは今日、ここにいた。コーヒーの旨さがきちんと分かる年代にもなっていたのだという仮りに若かりし熱情は去ったかもしれないが安定や積み重ねの大切さが分かった年齢でもあるということを安堵という重しにして。