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リマインドと想起の不一致(16)

2016年03月02日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(16)

 ひじりの耳たぶに光るものがぶら下がっている。髪にもアクセサリーがついていた。それらは彼女に接することにより、より一層の輝きをもたらしているようだった。飾り物が彼女を丹念に縁取る。切られた髪は彼女と一体ではないが、その輝く付随物は疑問もなく彼女だった。彼女自身だった。

 ぼくはまだネクタイの一本も有していない。ひととの差異は、スニーカーなどの一部の色柄の主張だけだった。自分自身の個性がどのあたりにあるのか分からない年代だ。大げさにいえば死ぬ間際になっても本質は分からないのかもしれない。

 中学生時代の休日ものこりわずかだ。ぼくらはバイトについて話し合う。自分の労働の対価が、自分のお小遣いとして加えられる。その場で出会う年代も多少、変わるだろう。自分が何に向いており、不得手なものがどういう類いのものか経験則によって覚えていくのだろう。

 ぼくらは混雑した道を歩く。ぼくは近くにある遠いむかしのオリンピックのために作られた体育館でとある大会を見学したことがあった。その開催日が平日なので担任にはうそでごまかそうとしたが、部活の顧問が間に入ってくれて、大っぴらに休むことができた。

 ひじりはその町で洋服を見たり、小物を手にして感想を言った。好みというのはどこから生じるのだろう。するとある店から当時の最新のヒット曲が流れてくる。ぼくらはどちらもその曲が唄えた。覚えられない学校の問題もありながらも、勝手に耳から簡単に情報を収集できてしまう事柄もあった。

 歩行者天国を歩く。無数の人々。無名の人たち。自分は将来、何によって知られるのだろう。ナポレオンにも歴史的な僧侶にもならない。医者や大学の学長にもならないだろう。銀行の頭取にもならない。スポーツで名を馳せるチャンスは極くわずか、限定的にも入らない程度だが、もしかしたらあるのかもしれない。

 どこかで誰かに見られている。ひじりの目というものより、もっと大きな何かに見られているという意識がどこかにあった。

 ひじりこそ、一体なにになるのだろう。安っぽい言い回しだが、なるべくならこのままのひじりであってほしい。耳に輝くものをつけ、笑ったりする拍子や、首を振ったりすると、自然に揺れるアクセサリーたちに囲まれて。

 彼女は変わっていく。ぼくも変わっていく。その交差する場所を維持するのは、いびつな希望と好意にならないだろうか。

 落ち着いた所まで歩き、ぼくらは段になっている路面にすわった。新鮮というストックも、在庫もないのがぼくらだった。経験もなければ、前例もない。あるのは、この休日の数時間だけがすべてであった。欲張りという感覚もなく、固い段で一息をつく。


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