壊れゆくブレイン(84)
広美の荷物は昨日、引越し屋さんのトラックに積み込まれた。こちらにも大きな休みには戻ってくるので、大人のような完全ながらん堂の部屋になることはなかった。その閑散とした部屋で広美は一晩眠った。
翌朝、早起きをした彼女は大きめのバックを背負い、特急のチケットを片手に家を出た。ぼくらはここで見送って終わりだった。あとは、彼女の生活だ。友人も荷物の搬入や、簡単な清掃などは手伝ってくれるらしい。ぼくは事前に上田さんや笠原さんに連絡を取り、もし緊急の用件ができたらそこに電話をするように広美にも伝えた。そんなことは当然のことない方が良いが、女性がひとりで淋しく感じる気持ちや度合いなど、相変わらずぼくには分からなかった。
「行っちゃったね」雪代がしみじみとした口調で言った。「なに、考えてるの?」
「ぼくも、ここが好きだった。はっきりいって、ここしか知らない。でも、26のときにここを去った。あの時の気持ちを思い出していた」
「私たちは別れた」
「うん。ぼくは後悔していた。その前に仕事を引き継いでくれる同僚と映画館に行って、雪代と島本さんを見た。いちばん、見たくないことだった」
「でも、あなたは東京に行くべきだったのよ。人生のどこかで。いまの広美と同じように。私も別れたくはなかったのかもしれない」
「崖から突き落とす獅子」
「まあ、そういうことね。でも、またふたりになった」
「今度は娘を手放す」
「もう一人前の女性だよ。そうなってほしいけど。男のひとに甘えることも知らなかったけど、ひろし君には友情のようなものを感じていたみたいね。結局は、お父さんらしくなれなかったけど。それで、良かったんだね」
「ぼくも東京に仕事で行くし、たまに元気な顔も見られるよ」
「あっちで、どんな恋をするのかしら?」
「さあ、雪代は東京でそういう誘いはなかったの?」
「あったかもしれない。だけど、田舎に待っている男の子がいたからね。彼もわたしが知らないところで好きな女の子がいたみたいだから」
「心配だった?」
「とくには。わたしから逃げ出せるなら、逃げ出してみなさいという気持ちもあったから」
「随分と自信があるね」
「自信がない若い女性って、魅力がないでしょう?」
「そうだろうけど」ぼくはある女性のことを知り、空白の期間ができ、そして、いままた共に暮らしている。それは密度を増すことがこれから来るのか、それとも、あまりにも自分たちはいっしょにいることが自然のことのように感じてしまうのか、まだまだ分からなかった。「今日は、なにをする?」
「ちょっと、あの子の部屋、片付けるね」彼女らは毎日、同じように起き、同じ時間を共有していた。それが突然、終わりを告げたのだ。終わることは数日前から、いや数週間前から知っていた。だが、それを実際に味わうとなると気持ちの受け止め方はまた違うのだろう。「夕方は、あの子と行っていたスポーツ・バーにわたしも連れて行って」
「いいよ。その前に散歩でもしてくる」
ぼくは家を出る。偶然、ぼくはお父さんとまだ小さな女の子が手をつないで歩いているのを見る。ぼくにそういう経験はなかったが、不思議とぼくと広美との関係のようにも思えた。ぼくのこころにもたしかにぽっかりと大きな穴が開いたのだ。まだ小学生だった彼女を運動会で見かけた。ぼくと雪代の交際が真剣なものに発展するには彼女の同意も必要だったのだ。ぼくは雪代を失いたくはなかった。自分が前の妻と死別し、自分の過去とつながるものを必死に求めていた所為かもしれない。ただ、ぼくは雪代との交際がずっと継続したものとならなかったことを後悔していたのかもしれない。そういうもろもろの拘束以上に、娘はよくできた愛らしい女性になった。東京での数年間で、どのように変化するのか、もうその年代の女性のことは自分には理解が不可能のようだった。
「ここね?」ぼくと、広美は休日によく来たが、雪代は店内に入ったことが無きに等しかった。
「お、近藤さん。こちらは、広美ちゃんのママ?」
「そう、こちら店長さん。若い頃、といってもほんのまだ小さかったときにサッカーを教えてあげていた少年」
「もう、ひげも生えてますよ。こんにちは、彼女、行っちゃいましたね。淋しいですか?」
「まあ、少しは」
「休みを何回か過ぎれば、この店でも大っぴらにお酒が飲める年齢になるから、そのときにまた連れて来てくださいよ」
「そのときは、おごってくれる?」と、雪代がたずねた。
「もちろん、お二人に。あとで、近藤さんがひとりのときに回収しますんで」
「それは、困るわね」と、雪代は言ってぼくの手の甲に自分の手の平を乗せた。ぼくはもう片方の手でビールのグラスをつかんで口に近づけた。雪代も背の高いグラスの足を持ち上げた。ぼくらはふたりきりになったのだという実感が確かにこの瞬間に湧いた。ぼくの人生がゴールに近付く途中の休息としてこの場面はしっくりとして安堵を与えてくれるものだった。
「広美も誰かと、こうするようなことがあるのかしら?」
「あるだろう。それが、大人になるっていうことなんだから」
「ひろし君みたいなひとなら直ぐに認めてあげる」
「ふたりといないよ」だが、ぼくにとって雪代と送った人生もとても大切で、価値の多いものになっていた。そして、これからの数年も数十年も彼女との暮らしを貴重なものにしたいと願っている。でも、起伏がないのも人生であり、波乱が多いのもまた同じように人生だった。選択をするかしないか、そもそも自分に選択をする権利があったのか知りようもなかったのだが。
広美の荷物は昨日、引越し屋さんのトラックに積み込まれた。こちらにも大きな休みには戻ってくるので、大人のような完全ながらん堂の部屋になることはなかった。その閑散とした部屋で広美は一晩眠った。
翌朝、早起きをした彼女は大きめのバックを背負い、特急のチケットを片手に家を出た。ぼくらはここで見送って終わりだった。あとは、彼女の生活だ。友人も荷物の搬入や、簡単な清掃などは手伝ってくれるらしい。ぼくは事前に上田さんや笠原さんに連絡を取り、もし緊急の用件ができたらそこに電話をするように広美にも伝えた。そんなことは当然のことない方が良いが、女性がひとりで淋しく感じる気持ちや度合いなど、相変わらずぼくには分からなかった。
「行っちゃったね」雪代がしみじみとした口調で言った。「なに、考えてるの?」
「ぼくも、ここが好きだった。はっきりいって、ここしか知らない。でも、26のときにここを去った。あの時の気持ちを思い出していた」
「私たちは別れた」
「うん。ぼくは後悔していた。その前に仕事を引き継いでくれる同僚と映画館に行って、雪代と島本さんを見た。いちばん、見たくないことだった」
「でも、あなたは東京に行くべきだったのよ。人生のどこかで。いまの広美と同じように。私も別れたくはなかったのかもしれない」
「崖から突き落とす獅子」
「まあ、そういうことね。でも、またふたりになった」
「今度は娘を手放す」
「もう一人前の女性だよ。そうなってほしいけど。男のひとに甘えることも知らなかったけど、ひろし君には友情のようなものを感じていたみたいね。結局は、お父さんらしくなれなかったけど。それで、良かったんだね」
「ぼくも東京に仕事で行くし、たまに元気な顔も見られるよ」
「あっちで、どんな恋をするのかしら?」
「さあ、雪代は東京でそういう誘いはなかったの?」
「あったかもしれない。だけど、田舎に待っている男の子がいたからね。彼もわたしが知らないところで好きな女の子がいたみたいだから」
「心配だった?」
「とくには。わたしから逃げ出せるなら、逃げ出してみなさいという気持ちもあったから」
「随分と自信があるね」
「自信がない若い女性って、魅力がないでしょう?」
「そうだろうけど」ぼくはある女性のことを知り、空白の期間ができ、そして、いままた共に暮らしている。それは密度を増すことがこれから来るのか、それとも、あまりにも自分たちはいっしょにいることが自然のことのように感じてしまうのか、まだまだ分からなかった。「今日は、なにをする?」
「ちょっと、あの子の部屋、片付けるね」彼女らは毎日、同じように起き、同じ時間を共有していた。それが突然、終わりを告げたのだ。終わることは数日前から、いや数週間前から知っていた。だが、それを実際に味わうとなると気持ちの受け止め方はまた違うのだろう。「夕方は、あの子と行っていたスポーツ・バーにわたしも連れて行って」
「いいよ。その前に散歩でもしてくる」
ぼくは家を出る。偶然、ぼくはお父さんとまだ小さな女の子が手をつないで歩いているのを見る。ぼくにそういう経験はなかったが、不思議とぼくと広美との関係のようにも思えた。ぼくのこころにもたしかにぽっかりと大きな穴が開いたのだ。まだ小学生だった彼女を運動会で見かけた。ぼくと雪代の交際が真剣なものに発展するには彼女の同意も必要だったのだ。ぼくは雪代を失いたくはなかった。自分が前の妻と死別し、自分の過去とつながるものを必死に求めていた所為かもしれない。ただ、ぼくは雪代との交際がずっと継続したものとならなかったことを後悔していたのかもしれない。そういうもろもろの拘束以上に、娘はよくできた愛らしい女性になった。東京での数年間で、どのように変化するのか、もうその年代の女性のことは自分には理解が不可能のようだった。
「ここね?」ぼくと、広美は休日によく来たが、雪代は店内に入ったことが無きに等しかった。
「お、近藤さん。こちらは、広美ちゃんのママ?」
「そう、こちら店長さん。若い頃、といってもほんのまだ小さかったときにサッカーを教えてあげていた少年」
「もう、ひげも生えてますよ。こんにちは、彼女、行っちゃいましたね。淋しいですか?」
「まあ、少しは」
「休みを何回か過ぎれば、この店でも大っぴらにお酒が飲める年齢になるから、そのときにまた連れて来てくださいよ」
「そのときは、おごってくれる?」と、雪代がたずねた。
「もちろん、お二人に。あとで、近藤さんがひとりのときに回収しますんで」
「それは、困るわね」と、雪代は言ってぼくの手の甲に自分の手の平を乗せた。ぼくはもう片方の手でビールのグラスをつかんで口に近づけた。雪代も背の高いグラスの足を持ち上げた。ぼくらはふたりきりになったのだという実感が確かにこの瞬間に湧いた。ぼくの人生がゴールに近付く途中の休息としてこの場面はしっくりとして安堵を与えてくれるものだった。
「広美も誰かと、こうするようなことがあるのかしら?」
「あるだろう。それが、大人になるっていうことなんだから」
「ひろし君みたいなひとなら直ぐに認めてあげる」
「ふたりといないよ」だが、ぼくにとって雪代と送った人生もとても大切で、価値の多いものになっていた。そして、これからの数年も数十年も彼女との暮らしを貴重なものにしたいと願っている。でも、起伏がないのも人生であり、波乱が多いのもまた同じように人生だった。選択をするかしないか、そもそも自分に選択をする権利があったのか知りようもなかったのだが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます