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リマインドと想起の不一致(15)

2016年02月28日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(15)

 試験も終わり、合否が分かるまでの束の間の自由な時間があった。予習はもう念頭にも計画にもなく、多少の復習が待っているだけだ。

 復習によって、自分の身になることも多いが、模倣というのは、比較すればつまらない側のものだった。クリエイティブな人間は新鮮な手垢のついていないものを喜ぶ。ぼくは将来という地点に足を踏み入れる段階にいた。

 放課後に後輩の部活の練習をぼんやりと眺めていた。自分が一生懸命に取り組んだものを同じ意気込みで後輩たちもしている。誰に頼まれたわけでもないのに。

 あり余るエネルギーの発露が競争心となって表面化された。勝てばうれしく、負ければ正当に悔しがった。その前段階として練習に熱心にはげむ。ぼくもその場で得た友人たちと策略もなく仲良くなった。その関係をなつかしむにはまだまだ早過ぎた。

 校舎からひじりが出て来る。髪を切ったばかりだ。その髪の一部は彼女から離れた。切られて地面に落ちた髪をぼくは愛することができない。それはひじりではない。こちらに向かって歩いて来るのがひじりの存在のすべてだった。

「自分でも、もう一度やりたい?」横にすわったひじりが訊く。
「どうかな」

 時間や秒数を縮めるためにグラウンドで格闘していた。一秒でもなるべく早くなるために。いまはまったく反対の気持ちで、この関係を長持ちさせることを一心に望んでいる。ひとはさまざまなことを要求する。

 能動的に仕組んだ作戦を企て、試みることがスポーツの醍醐味だった。いまは、ひじりの質問や疑問に見合った答えを探すという受動一方のような状態を楽しんでいた。外は晴れていて、空気は乾いている。長距離走の練習に打ち込んでいる後輩がいた。ゴールラインを越えると、屈んでひざに手をつき、肩で息をしていた。苦しみは爽快さにもつながる。ぼくはただ楽しいという境地にいた。苦痛も、努力も鍛錬もいまのぼくにはない。それもまたさびしいものだった。

 ぼくらは手をつなぎ、もう反対の手にはカバンがあった。教科書もノートももうぼくらは増やさないですんだ。次の学校でまた新しいものを手にする。この日々もあと一月ぐらいだ。何かが終わるということが感傷的な気持ちをもたらすとは思ってもみなかった。もっと解放感が先頭に立って歓喜だけが訪れると信じていた。

 ぼくは後方で起こった歓声を耳にする。ぼくのためではない。グラウンドで頑張る者だけに与えられるプレゼントだった。



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