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当人相応の要求(40)

2007年12月09日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(40)
 
 例えば、こうである。
誰が、1位、2位とランク付け出来ない社会。だが、それにしても確実に才能の差異がでてくる分野。
バルザックという傑出した人物。1850年に約半世紀の人生を終えている。50年で、あんなにも多作で、立派な作品を残すことが出来るのだろうか?
ロダンによる彫刻。人間の善悪、いやらしさ、醜さ。また逆に、清潔さ、高貴さをすべて兼ね備えた芸術。この人以上に、本という形式で紙に印刷され、リアルな生な人間を描けた人がいるのだろうか、と日本の彼は思う。そして、圧倒的なまでの質と量に打ちのめされている。
印刷業を自分のものにすれば、制作したものを公表するのに、いくらか楽なものになるのではないかと作家としては、当然の帰結なのだろうか、野望的な考えを実行し、そのためにかえって借金まみれになる。その借金をマイナスするために、またまた大量の紙をペンのインクで埋め尽くす。後代にその文章を読む人たちは、その人物の計り知れないエネルギーの表れと、数々の問題を克服するようなバイタリティに恩恵を受けていることは事実だ。
最終的に借金の清算はかなわないまま、優れた作品とひきかえに人生を終える。東洋の印刷物を愛する少年は、その人物の全集に何度、購買意欲をそそられたことだろう。文章で神の視線のいくらかでも勝ち得ることを、かのうならしめた人物。
長いものを得意とする人もいるし、短いもので、キラリとナイフの尖端のように輝ける作品を残した人もいる。
モーパッサンという人物。ノルマンディーから訪れる。
幸運なことにというか、運命が導いたのか、家族の知人にフローベルという作家がいて、その人に師事する。才能は、伝承できるのか? この場合は可能だった。
数限りない短い、宝石箱の中の光り輝く作品たち。
上流社会に憧れる人物が登場する。社交界という生活が現存する世界。ある舞踏会に呼ばれる。そのパーティーに服装は用意できたが、首元がいくらかさびしい女性。そうだ首飾りという装飾品が足りないのだ、と気づき、それを借りることを考える。
手頃なものが借りられ、その場も楽しく過ごし、けれど、はっと気づいたときに首もとのネックレスがないことに思い至る。探しても見つからない。どうしよう、ということになり似たものを探し、借金までして手に入れ、きちんと返す。身分不相応だったのか? なにかの警告が含まれているのか?
その借金の返済のために泥のような生活をし、約10年かけて完済する。そこで首飾りを貸してくれた女性に偶然であう。疲れ果てた女性と、まだ美しい女性の遭遇。
「あなたに借りた首飾りをあの時に無くしてしまい、同等のものを買って返しました。そのときの借金を返済することがどれほど大変だったかしら」
「そうだったの? そんなことをしなくてもよかったのに。だって、あれ、模造品だったのよ」
という、辛いオチ。でも、人生って、結構こういうことがあるようなものだと認識をしている彼。でも、それを紙の上に印刷されたものを読んだことはなかったが。印象に残る短編を作り続ける名手。だが、1893年にこの世を去る。
それぞれの長さで、それぞれの文体で社会に挑んだ人たち。すべてを読めるわけではないが、その面白さをいくらかでも吸収したい彼だった。
ひとつの国に、それだけでも才能を有する人物がたくさんいる。200いくつかの国と地域があることを思い巡らす。違う言語という、ある種の妨げにもなる、非接触な媒体。だが、クオリティの高いものは、津波のように意識や言語を越える。
今日も本のページをめくる。家の中で。列車内で、カフェで。飛行機の中で。待ち合わせのあいた時間に。自分はなにをしていたのか、何の用件をするはずだったのか、と時折り忘れてしまう彼だが、そのような幸福を感じさせてくれた人物がいたことに感謝するのみだった。
視力との問題。妥協と兼ね合い。小さな文字。ある日、限界が訪れるかもしれない。その時までに、実際の生活以上にリアルで生活感のただよう作品を、発見し探す。

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