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当人相応の要求(15)

2007年04月23日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(15)

例えば、こうである。
人生をマラソンに例える人がいる。いや、マラソンを人生に例える人たちがいる。いいえ、人生を勝者のつかないものにしたがらない人がいるのか?
ザトペック。勝者。だが、勝者とは思えないほどのヘルシンキでの苦しい走り方。1952年。彼は知る。一つの競技だけでも頂上を極めるのは難しいが、その人間機関車(リニア・モーターカーなどでは決してない)と呼ばれた人は、3つの競技。5千メートル、1万メートル、マラソンという種目で、並居る強豪と競り勝っている。
その妻、ダナ・ザトペコアもヘルシンキにて槍を空中高く投げ飛ばし、金色のメダルを勝ち取っている。
チェコ・スロバキアという国。現在は消滅。古代のイスラエルとユダ王国のように2等分される。その歴史。作家であるルドヴィーク・ヴァツリークなる人が考え出した「二千語宣言」というものに賛同し、それを表明したために冷遇される。言うべきときと、口を閉ざすとき。スポーツという、ある種、無言のアピールで感動する我々。それ以上に胸を打つことがないかもしれない言葉という世界。
彼は、知る。昔の日本人像。
円谷幸吉、という名前ほどに幸いを持っていないような人を。東京でのオリンピック。陸上競技という本来の孤独のスポーツ。一人きりの世界。
彼は、哀切ただよう姿でスタジアムに走りこむ。後ろを振り返らない姿勢。男性に対する教育。男の子とは? こうあるべきだ。という形。
そして、振り返らないことによって、彼は、後続の選手に抜かれる。
それよりも、その残した言葉。人間の最大の思い入れは、感動は、つまり感謝の言葉は、何々がおいしかった、ということにつきるのか。
人生の途中で、期待されることや、目標に達成できないことに押しつぶされてしまうこころ。賛美も出来ないが、この物語の彼の感情にも、同じようなものが眠っている。
責任感、真面目さが認められた世界。彼は知る。軽薄な時代に自分は、生きていることを。
犠牲者。いつの時代にもいる、国家や主義に左右されつづける人。
1980年、モスクワ。アフガニスタン侵攻。その仕返しとしての西側社会の態度。さらに、見習うべきかスポーツマンシップ。
スポーツ選手の維持できる体調管理と、どうしようもない自分の選手生命のピーク。それを失ってしまうこと。SBというマークをつけた選手。瀬古。
もし、出場していたら金メダルを取っていたのではないか? と幼い小学生は考える。だが、大人になることは、知識と痛みもともに身に着けてしまう。ビル・ロジャースという人が、アメリカのマサチューセッツにいる。彼は、1978年から3年間も、ボストンのマラソン大会で連続優勝している。もちろん、モスクワで走れなかった人。自国を愛そうとする彼も、その事実に驚愕する。やはり、西側の国がボイコットしなければ、優勝はそのアメリカ人だったのだろうか。
そして、マラソンのように人生をとらえようとする人々がいる。0.195キロという半端な数字に権力の陰を見抜こうとする人もいる。
ローマの石畳のうえを裸足で走ったエチオピア人がいる。その痩せた身体に、第三世界を感じる人もいる。歴史の事実。世界記録や金メダルを手にしたその人は、1969年、アクシデントにより下半身不随になっている。誰よりも、早く遠くにいけた人間が車イスに乗っている。
陸上の短距離を学生時代に選んだ彼は、長く走ることには自分が向いていないことを知っている。だが、知識を求道するのには、長い持続力が必要なことは知っている。それから、急いで街を通り過ぎることを好んでいない。全世界を自分の足を使い、足の裏で感触をたしかめ、見極めたいと思っている。マラソンという過酷なスポーツに励んだ人たちのように、世界に通じる道があるならば、彼も、そこを通りたいと思う。
そして、通ったあとには、思い出と円谷さんのような本気の言葉が残ればよいとも思う。そのためには、一つのことにある程度以上に、熱中しなければと決意する。


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