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当人相応の要求(34)

2007年10月22日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(34)

例えば、こうである。
途中で折られる枝。与えられた命の閉じ方。
誰しもが通過する俗にいう「青の時代」。当惑や葛藤の入り混じった自分の生命の 存在意義。半ばはもてあまし気味に、なかばは不確かな自信を有して。いのちに対して無頓着になる時期。それからは、たえられないぬかるみに足を踏み入れるような死への魅力。誘惑と戦慄。
短編の名手がいる。人間の顔の一部である鼻だけを題材に、大傑作を残す男。神経症的な主人公。もちろん、滑稽さもだいぶ有しているが。
いまは前ほどには贔屓にされないのかもしれないが、日本語の魅力にあふれている。それは、若い女性が身にまとうこともなくなった自然体としての着物のようなものかもしれない。
その人の残した最後の言葉。「人生のぼんやりとした不安。」
現代人が抱えている胸の奥を、このような見事な言葉で言い尽くせるだろうか。将来的に、圧倒的な繁栄は、一時に崩れ去ることを知っていた、彼が10代後半のころ。特別に分析にすぐれている人間でもなかった。しかし、もくもくと自然発生的に太陽を覆いつくす将来の不安な雲。もしかして、人間の生きる価値というものはあるのか。それは、どういったものだろう、と頭を悩ます。
心中や自殺をくりかえした作家がいた。人間失格や斜陽という、信じられないほどの繊細さを兼ね備え、また完成度の高い作品がある。彼は、人に会うのが辛くなっているころ、それを読んだ。そして、当然の帰結として、より一層、自分の内部の探求に走っていく。もちろん、薄い人生経験で深みなど、まったくない時期でもあったのだが。
その一方で、ハリウッド映画の影響として、自分の身体を鍛えようとする彼。内面は憂鬱な人格を住まわせていたが、外なる肉体は、筋肉で固めようと矛盾した考えをもっていた。
ある日、河原で皮膚を日に焼きながら、太宰という人の活動の中盤の、いたく愉快な小説を読んでいる。彼は、文章で、こんなに笑わせてくれるものを読んだことがなかった。そして、一人の人間を簡単にジャンル分けする恐怖も感じる。
「自己優越を感じている人だけが、真の道化になれる」
 という言葉を知り、彼は、自分も滑稽さを身につけようと努力する。もちろん、生まれつき面白い人間でもないが、それは努力のし甲斐があるようにも思える。
 それからは、内面に不安を抱えようが、ユーモアというものですべてを包みだす。しかし、長い間それを続けていると、悩みの共有という青年特有の愛撫から遠ざかってしまい、そのユーモアがかえって、自分と廻りの人間を遠ざけていることを知った彼だった。
 彼は、いつの日か美術館の内部に居場所を見つける。アルルで鮮烈な色彩を見つけた男を発見する。社会と自分の接点を、見つけられない男。金色に輝く麦畑。そこでの最後の銃声。
 弟に頼りきりになっていた、ある種の社会不適合者。
 その人の日記が残っている。恐い動物に片手をそっと伸ばすように、社会と和合を求める人間がそこにいる。しかし、あまりにも生真面目すぎ、真摯すぎ、自分の人生を、ひとつの成功者というイメージに近づけようとする努力のむなしさ。リハーサルを何度もして、有能なる画家と共同生活を求める人間。あまりにも、きちんと生きようとすればするほど、破綻していく人生。
 人生の閉じ方。彼も、自分が若い時に、この世に別れを告げるはずだった。だが、ある日、床屋で髪の毛を切っているとき、髪の両側にパウダーを塗られ、それが白髪のようにうつり、自分の数十年後を垣間見たような気がした。それを見た瞬間に、長生きしても良いかな、と考えるようになった。
 彼は、思う。繊細さも、若い社会と妥協しない真剣さも、いつのまにかポケットから無くした鍵のようなものだったと。それでも、良いとも思っている。
 この厭な、ときには不快な、眠れないようなストレスがあったとしても、理想とは格段に離れている人生だったとしても、それでも、人生は生きるに値すると思っている。
 根底から、なにも変えられない力のない存在だと理解しても、多少のご馳走と、スポーツ選手の活躍と、少数の燃え尽きた芸術家の力の発露を感じられるこころが、自分の体内に残っているとしたら、残っていなくても構わないが、年をとっていくのも、そんなに悪くないものだと彼は知る。


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