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当人相応の要求(33)

2007年10月17日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(33)

 例えば、こうである。
 彼は、東京の街を歩いている。実際に歩くことによって、脚の筋力が増すように、東京という街並みのひょろひょろとした肉体が、ある瞬間、見事に青年に達したような筋肉を持っていることに気付きだす。建物とそのデザインによって。
 彼は、ある冬の重いコートを脱いだように一気に桜が咲き出した町を歩いている。江戸の名残のような王子にある飛鳥山公園。江戸の庶民たちの憩いの場であったことを知っているかは分からないが、歴史が流れても桜の下で憂さを晴らしたい人々。
 その奥にひっそりと建っている建物。
 青淵文庫という名前。渋沢栄一という有力者のために贈られたもの。田辺淳吉のデザイン。浮かれ騒いでいるときに、こっそりその場を離れ、このような建物に遭遇すると、自分の酔った頭が捏造したものであるかのような錯覚に陥る。しかし、確かにある。そのわけは、やはり有力者には、後世になにかを残す余力がある。
 正義感のある人間が、革命の根を抱え込むようにその人物も、現況の政府をよく思っていない。しかし、ふとしたことで最後の江戸の権力者側に立場を定め、その影響と、またフランスに渡る要人のお供をし、資本主義社会と経済人の考え方に平手打ちされる。その後、日本に戻ってきて、数々の会社を起業し、またホテルの建設にも携わり、さらには現在の有名な学校のもとまで作り上げる。株式というシステムを輸入した人。
 彼は、湯島を歩く。岩崎邸という三菱財閥の館がある。設計者はコンドルという人物。奇抜でありながら、どんな場所にも不思議としっくりくる建物を作り上げる。鹿鳴館という歴史の塵のしたに埋まっているものも作ったが、彼は、その言葉しか知らない。しかし、現存しているその人の作品を網羅することを夢見る。また、その旧時代の財閥という響きに恐れをなす。自分が、ジーンズをはいてアメリカ南部の綿花畑で働いているようなちっぽけな人間という感情をもつ。そっちの側に席がない自分を痛感しているのかもしれない。
 彼は、三田という町を歩いている。そこに急に表れた三井倶楽部という建物。その厳かな雰囲気が宿っている場所。スーパーマーケットで食材を買う平均的な暮し。ふらっと入ることも出来ない会員制という名前の敷居。しかし、その美しいデザインをショーウィンドウの向こうにあるトランペットをのぞきこむ黒人の子供のように憧れをもって眺める彼。
 調べていくと、ここもコンドルという人物が手を貸した。明治という時代。即席な西洋化。しかし、野球やサッカーの助っ人外国人が、どういう心境で(遊び半分もいたのか?)働いていたかは知らないが、それぞれの心に忘れられない印象を残し、また活躍自体を置き忘れるようにこころの中に留めてくれるが、社会的にそういう人々に頼らざるを得ない状況だった。
 彼は、さらに渋谷から電車に乗り、駒場東大前という駅で降りる。前田侯爵という方の屋敷。大名という立場から侯爵という肩書きへのスライド。いまも残っている洋館。その美しさは、彼の目を圧倒する。
 彼は、その中に足を踏み入れるも、なんとなく落ち着かない気持ちがある。最終的には、もし仮に住む機会があるならば、一番小さな部屋で充分だと思ってしまう。しかし、経済的に裕福であろうとなかろうと、戦局という大きな事件に遭遇すれば、もろもろ蒙る影響は大差がなくなるだろう。
 その素敵な洗練された住まいは、アメリカの軍事力の前にひれ伏す。昭和20年の9月には戦勝国のものとなり、第5空軍司令官ホワイトヘッドが仮に住み、それから26年4月からは、極東総司令官リッジウェイの住まいとして利用されることになる。
 彼は、そうした事実を覚えておこうとも思うし、なにより、すべてが更新されアップグレード? される東京にあって、残っている期間が骨折した人のギブスのような短さでなくなっていく、この町のはかなさを、記憶に残していきたいと渇望している。
 さらには、そうした物を建てられた財力を、自分は一生持つこともないことも予感している。ロシアのサンクトペテルブルグには何があるのだろう? エカテリーナという女王の財力か、それとも一時レニングラードと呼ばれた人の思想なのだろうか? この地上を永久に愛せるのだろうか?


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