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当人相応の要求(36)

2007年10月29日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(36)

例えば、こうである。
 戦略としての聖火。ベルリンという名前の都市。一人の人間の権力への執着。
 彼は、知る。そして、知るという作業と行程には、いつも痛みがともなうことと。
 ベルリン・オリンピックというものが、一人の人間の野望というもので語られてしまうこともある。聖火リレーというのが平和の象徴として語られる。それぞれの民族に、結果として橋をかけなければと。しかし、その聖火がたどった道を、今度は、それを完璧な地図の複製として、武器と銃弾が流れ込む。ドイツの周辺には、恐るべきことが起こる。あんな風に、かんたんに土地を通らせることはなかった、と悔恨の情は残るのだろうか。
 その人間の野望、極限までにはりつめたある種のむなしい美。苦痛がともなうスポーツ選手の最後のもがき。
 そのスポーツの祭典を圧倒的なまでの美しさを含んだ芸術作品として残した女性があらわれる。本人は、ただ自分の美意識を映したまでだが、歴史に足をすくわれる人は、必ず出てくるもので、そのレニ・リーフェンシュタールというひともナチスとの関わりをとがめられ、ある面でこの小さな世界から追放される。人間の形の美を追求しただけであって、その思想を良いかどうかをどう判断していたかまでは分からない。ましてや、未来の人間は、なお一層分からない。しかし、その資金の出所が問題なのだろうか。
 その資金のもとの、ひげを生やした男性。自分の民族が勝れていると考えている。ここでも、マイノリティーの憂鬱。
 その民族の優越性をかけた戦いで、本当の勝利者の数人。ジェシー・オーエンスという黒い肌の男性は、100メートルと200メートル走のメダルを手に入れている。
 日本人としては、棒高跳びと3段跳びで、もう一つ下のランクのメダルを手にしている。しかし、世の中は、まだ侵略したり奪い取ったりする風潮がはびこっていたので、金メダルをとったマラソン選手も、その時は日本人として、メダルを手にした。もちろん、今では、そんなことを誰も考えていない。1988年のソウル、ある一人の男性が聖火を手にし、スタジアムを走っている。歓喜とか自由は、ああいう形でしか表現できないのかと思えるほどの、見事な喜びようだった。彼も、それをテレビで目にして、胸の中に凄まじい感情が流れた。そして、どんなことがあっても、人の優劣を足場のしっかりしない民族で考えることだけは、やめようと誓う。
 そのベルリンが平和と和合の象徴として、一緒になる。ソウル・オリンピックの次の年には、両民族は解放される。ヴィム・ヴェンダースの映画の主人公の天使は、そのことを望んでいたのだろうか。白黒の映画の中で、うつろな視線でその町をながめる主人公。決壊した壁をあとにする国もある。しかし、アジアの国は、まだ二つに分かれている。
 オリンピックを映像に残すという作業。東京でのオリンピックを市川昆という監督が残している。失われゆく、前次代の美しい東京。小さな身体の、今後電気製品などで経済発展を遂げる国。
「白い恋人たち」という冬季のオリンピックを撮影した映画もある。信じられないほど可憐なフランシス・レイの音楽をバックにして、スキーは軽やかにすべる。
 そして、最後は旗。そして国家戦略としての聖火。中国という国と台湾という場所のいがみあい。もう、そんなことは目にしたくないと思っている、彼だった。
 モスクワで行われたオリンピックに足を踏み込めなかったチャンスある人たち。仕返しとして、ロサンジェルスに行かなかった東側の人たち。
 いつか、それらの記憶が彼の頭の中で居場所を失えば良いと思う。
 ひとりの女性が、映像も撮れる女性が40代前半で終戦を迎える。その後、60年も生き、数々の変貌を遂げるが、いつも過去の悪癖をとがめられるようにレッテルを貼られる。作品を、作品自体として、受け止められなくなってしまう、彼女の人生。ある時代と、深く密接に結びついてしまう不快さと、やりきれなさ。そして、正当に判断する材料を見失ってしまう民衆たち。
 彼は、来年もテレビでオリンピックを見ているのだろう。目頭を熱くする瞬間もあるかもしれない。ある人たちは、幸運をいつのまにか失っていたことに、あとで気付いて驚愕することもあるだろう。しかし、そのようなことも含めた人生を愛おしく感じようとも、考えている。


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