打倒!破廉恥学園

旋風寺武流PLが意味もなくただ、だらだらと掻き散らかすブログです。

おさらいおさらい

2010-01-11 08:37:28 | Weblog
まずは自分なりに土佐の身分システムについておさらいしてみようかな。

1600年。関ヶ原の合戦において、徳川家康率いる東軍が、石田三成(厳密には違うけど)率いる西軍を討ち破った。

東軍に組していた山内一豊は戦勝のご褒美によって土佐を与えられる。それまでは土佐は長曾我部の殿様が治めていた。

ところが一豊は土佐で手痛い目にあう。旧長曾我部の家臣たちが自分の言う事を全く聞いてくれないのだ。天下は徳川のものとなり、自分にはもうこれ以上の出世はできそうもない。これから子々孫々まで土佐を治めていくしかないのだ……それなのに土着の侍たちを御せない。

このままでは、監督不行届で改易されてしまうのでは……そういう焦りもあったのではなかろうか。一豊は旧長曾我部の家臣たちを徹底的に弾圧する。

お前らが俺と主君と認めないなら、俺もお前らを家臣とは思わん!と、家臣をわざわざ土佐以外から募集したり、長曾我部の殿様が住んでいた城をとりこわし、新しく造った高知城建築には土着の侍たちを一切手伝わせなかった。

そして極めつけは、相撲大会を開くとおびき寄せ、土着侍の有力者たちを処刑してしまう。ドラマ「功名が辻」では一豊ではなく六平太が勝手にやったことになっている。後味が死ぬほど悪い出来事だからだろう。

結局、これでいがみ合いの決着はついたのだが、土着侍たちは下士(郷士)という扱いで支配されることになり、山内ゆかりの侍たち(上士)以上の身分にはなれないことになる。下士の身分はある意味、農民よりも低かったと言っても良いだろう。何しろ漁師だった中浜万次郎(ジョン万次郎)が上士として取り立てられているからだ。下士にはそんな機会もなかったはず。

上士と下士というシステムは、それを認めてしまった徳川が滅ぶまでずっと続くということになる。下士たちの徳川に対する恨みはさぞや深いものだっただろう。この恨みは260年以上にも渡って続くことになる。