打倒!破廉恥学園

旋風寺武流PLが意味もなくただ、だらだらと掻き散らかすブログです。

我が月旦 ~劉禅公嗣~

2006-10-25 12:32:48 | Weblog
毛沢東曰く

「人民は阿斗になってはいけない」

うちの大学に通っている中国からの留学生曰く

「中国ではですね。阿斗は愚か者の象徴みたいに言われているのですよ」

劉禅。字は公嗣。乱世のるろうに劉備玄徳の子にして蜀漢二代目皇帝である。二代目皇帝であると同時に、蜀のラストエンペラーでもあるんだけどね。
ちなみに阿斗とは劉禅の幼名である。なんでも阿斗がまだお腹の中にいた時期に、母親が北斗七星を飲み込む夢を見たから阿斗とつけられたそうだ。

うん。まぁ……凶馬の呪いは確実に劉備を襲っていたんだなぁって事かな(我が月旦~趙雲子竜~より)。

人畜無害に見えて案外こすっからい所があった劉備と違い、本当に凡庸な人だったようだ。

凡庸は決して悪いことではないと思う。むしろ皇帝ともなれば、少しばかりボンクラな方が大人物に見えるものだ。しかし時代が悪かった。魏呉蜀の三国分立が成ったとしてもやはり乱世の真っ只中。乱世の凡庸は罪に等しい。

しかし幼い頃から政治の天才である諸葛亮やその他文官が身近にいたはずなのにどうして凡庸になってしまったのだろうか。まぁ、諸葛亮はあまり弟子の育成は得意じゃなかった(例:馬ショク)ようなので仕方がないかもしれないけど。

やはり何か原因があって脳のスペックが低下してしまったのではなかろうか。

となるとやはりアレしかないな。

207年。曹操軍の猛攻を受けた劉備軍は散り散りになってしまった。その際、趙雲は保護した阿斗(まだ産まれたて)を懐にしまい戦場を駆け抜けた。馬に跨り、たった一騎で曹操軍の中を突っ切って劉備の元へと駆けつけた。

一騎で大軍の中を突っ切りましたか……さぞかし大暴れしたんでしょうなあ。
馬も大きく揺れたんだろうなあ。懐の中の赤ちゃんの脳もさぞかし揺れたんだろうなあ。

そしてとどめがコレですよ。

血まみれになって劉備の元に戻った趙雲。懐の阿斗を劉備に恭しく差し出せば……

なんと劉備。阿斗をポイと投げ捨てた。そして一言。

「お前(阿斗)のために趙雲が死にかけたのだ!」

趙雲男泣き。劉備も男泣き。で、投げ捨てられた阿斗は?頭とかぶつけたのかも。
これが史実かどうかはよくわからないけど、やっぱどっかで頭ぶつけたんじゃないかなと私は思うのですよ。

三国志が好きな人は諸葛亮好きな人が多い。それゆえ、諸葛亮が死んだ後に彼が一命を賭けて守ろうとした蜀を滅ぼしてしまった劉禅を憎む人も少なくはない。

こんなエピソードがある。

263年。蜀が魏に滅ぼされて後……というか、戦況が不利になったので劉禅がソッコーで降伏して蜀が滅んじゃった後の話だけど。

劉禅は魏から捨扶持をもらって幽州(奇しくも父親劉備の生まれた土地)で暮らしていた。ある酒宴に招かれての事である。その日の趣向は蜀の舞。滅ぼした国の皇帝にその国の舞を見せる。なんと陰湿な嫌がらせか。

しかし劉禅は大喜び!!旧蜀の家臣がうなだれる中、一人舞を楽しんだという。

こらあかん、全然嫌がらせが通用してないと頭を抱えた魏の重臣の一人(たしか司馬昭か誰か)が劉禅にこう尋ねた。

「どうですか。蜀が恋しいとは思いませんか?」

こんな質問を亡国の皇帝にぶつけるのもアレかと思うのだが、というか明らかに嫌がらせの質問だが、劉禅はほろ酔い気分でこう返した。

「ここは楽しい。蜀が恋しいとは思いません。太平にかんぱーい(*´▽`*)」

これはさすがに元蜀の家臣だけではなく魏の家臣たちもヒいた。いくら諸葛亮が生きていてもこいつがトップである限り、どうにもならんかっただろう……と。
さすがにまずいと思ったか、お供の一人がお酌する振りをしてこっそりと劉禅に耳打ち。

「こういう時はかなしい顔をするものでございます」

後日、別の酒宴の席で似たような質問をされた劉禅はこう答えた。

「まったくかなしいです(ノ_・。)クスン」

すると質問をした人は前にお供が耳打ちした事を知っていたので

「それはあなたの家臣がそう言えというから仰っているのでしょう?」

と意地の悪い返しをした。すると劉禅は

「あ、わかっちゃいましたか(〃∇〃) テレッ☆」

と照れくさそうに笑ったという。

劉禅公嗣。こういうエピソードのために後世の歴史家たちからは凡愚の扱いを受けるも、魏から危険人物扱いされることはなくなり、65歳で死ぬまで平和に暮らしたそうな。考えてみれば幸せな一生だったかもしれない。