10月1日の秋田市広報「広報あきた No.1994」に「あきたおさんぽマップ」なるものが紹介されていた。ネット上で観光に関した地図を見られるもので、公益財団法人 秋田観光コンベンション協会所管。
アクセスしてみると、既存のサイト「秋田市観光・イベント情報総合サイト アキタッチ+」の中にあった。https://www.akita-yulala.jp/pickup/5000023535
観光・飲食や文化財のマップ、そして古地図が見られる。前2つは、紙やPDFでも見られるだろうが、ブラウザの画面上でズームやドラッグ(スワイプ)してあちこち移動できるのがいい。
そして古地図は、操作性も同じだが、よそでは容易には見られない貴重なものだと思う。
2つあって文政4(1821)年のものと、昭和26(1951)年のもの。個人的には後者がおもしろい。
当時の秋田市役所が発行し、秋田市立中央図書館明徳館が所蔵する「秋田市街全図」とのこと。
「時系列地形図閲覧サイト 今昔マップ」では、秋田市は明治(1912年)の次は1970年代まで飛んでしまっているので、抜けた終戦直後の時期を見られる。
今昔マップのように、新旧の地図を左右に並べての比較はできないし、そもそも縮尺が地形図のように厳密ではない。【4日補足・奥羽本線北側~羽越本線が、実際より急カーブで描かれているので、南北方向が圧縮されているようだが、東西方向も正確ではないと思う。】
ただし、画面下の「SWITCH」ボタンを押すと、現在のマップの大まかに同じ位置に切り替えることはできる。全面的に信用しないほうがいいでしょう。
その現在の地図は「mapbox」という地図サイトのもののようで、見慣れない地図サイトではあるが、総合的には見やすい。しかし、なぜか神社の表示が控えめな傾向があって、例えば太平山三吉神社の位置には何も文字が表示されない。
秋田市街全図は、秋田駅を地図の上部中央に配置(つまり東が上)し、北は添川、港北小学校、秋田港、南は二ツ屋潟(今の秋田南高校の場所)、新屋駅(他の駅は漢字なのに「あらや駅」と表記)、日吉神社が範囲。
ざっと見て、
・誤記と思われるものもいくつか。外旭川村(当時)の「梶ノ目」を「梶ノ月」、「雄物新橋」が「雄物川新橋」、牛島西の「三皇熊野神社(本宮)」が「三吉神社」。
・雄物川放水路河口の両岸(南のももさだ海岸のほか、北の割山側も)に「海水浴場」がある。→現在は遊泳禁止。離岸流などで危険。
・割山の海水浴場のすぐそばと、現・勝平小学校付近に「入植住宅」。→海水浴場は後の(初代)秋田空港、現・空港跡地付近。冬は厳しかったことだろう。
・工場や学校などがある「茨島」の地名表記がない。当時もあったはず。
・国道7号、13号がなく、牛島~茨島~新国道が「国道第五号線」とされている。→現在の国道番号になったのは、発行翌年1952年だった。当時は東京~福島~山形~秋田~青森が5号だったらしい。一方、今は7号である酒田街道は10号(東京~秋田)だったそうだが、記載はない。
・千秋公園の東向かいに「国立秋田病院」がある。→後の時代に秋田県立の病院ができ、秋田大学医学部附属病院創設時に代役を務めたりいろいろあって、県立脳血管研究センター等、今は県立循環器・脳脊髄センターになったわけだが、その前には国立病院があったってことか? 国立病院は厚生労働省管轄で、由利本荘市道川には古くからあり、今は「国立病院機構あきた病院」。
・その国立病院の隣、今「秋田県総合保健センター」の場所に「進駐軍宿舎」。→当時はまだ占領下か! 占領は翌1952年4月28日まで。隣の「コスモポリタン」ってのも関連施設?
・その他、今はなくなったり名前や場所が変わったりした施設が多数。
さて、今はオフィス街・官庁街の山王。
秋田県庁が移転した1959年時点で、周りは田んぼだったそうだから、この当時も当然。エリア名としての山王さえまだなかった。
今の山王十字路付近
山王十字路は西側がなく丁字路(昔は「八十刈(やそがり)」と呼ばれていたと聞いた)。赤い線は秋田市電。
田んぼの中に高陽(こうよう)中学校と旭北小学校が隣り合う。
位置は今の市立山王中学校、市立旭北小学校の場所。道は異なり、細かい市道がなく、国道(現・県道)から一直線だったのか。
以前記事にしたように、戦後・1947年に新制中学校ができた時、秋田市中央部(と東部の一部)には5つの中学校ができた。しかし、それらは短期間に終わり、1953年に秋田東、秋田南、山王の3校に再編されて現在に至る。
山王中は、高陽中と成和(せいわ)中の2校が統合して創立されたことは、山王中の沿革でも明示されている。
しかし、前身2校についての情報は、ネット上には極めて少なく、正確な創立日や所在地も分からなかった。
身内に高陽→山王の移行期に在学していた者がおり、高陽中の土地と建物がそのまま山王中になったことは聞いていた。成和中については何も知らないとのことだった。いつか図書館ででも調べようと漠然と思っていたが、この地図に高陽中が載ってるということは…
「成和中学校」発見!
国道5号を南へ進んで、旭川を渡って(表記はないが旭橋)、今の茨島交差点の南側(「旭橋通」とある)、書いてないが国道10号に入ってすぐ。国道に面している。
今、ハローワーク秋田に入っていく交差点角のパチンコ屋の辺りだ。
【3日画像追加】地理院地図を東が上に回転。赤い★が成和中跡と思われる位置。道路の線形はあまり変わっていない
(再掲)左が秋田大橋方向・右が山王方向。このもうちょっと左辺り?
(再掲)奥が秋田大橋方向。この枠外・右か?
成和中の裏手には「商業学校」もある。
秋田市立秋田商業高等学校の前身の「秋田市商業学校」らしく、同校沿革に1946年から1957年まで「茨島校舎」だったとある。その後、八橋校舎(現・サンライフ秋田等)を経て、1978年から現在地。
ここは1983年まで秋田経済大学(下北手へ移転し、秋田経済法科大→現・ノースアジア大)があったことは、知っていた。前身の秋田短期大学が1953年に開校した時から、この場所だと思われる。
ということは、元々は秋田市の土地で、成和中廃止&(短大と数年重なるが)秋商移転後、秋田短大へ譲渡されたのだろうか。また、ここの北側、国道(臨海バイパス)沿いには、今も市立茨島体育館と秋田市教育研究所があり、それも名残りなのかもしれない【3日追記・体育館と教育研究所は「県工業指導所」の跡にあるようにも見える】。
臨海バイパスといえば、この地図当時は、それも未開通。旭川の秋田運河合流点手前に架かる、新旭橋もない。工場は建ち並んでいたが、道は川で終わり。
今は住宅も多く、山王中学区である茨島~卸町も、多くが未開発。
となると、成和中の学区は、今で言う旭南、川元、川尻が中心で、みんな旭橋を渡って通学していたのだろう。
長年の疑問が解決した。
ついでに、他の3中学校も探してみた。手形中、久保田中、泰平中。
泰平中は、今の南通亀の町付近、これは秋田南中の創立地(1978年に現在地へ)である、楢山南中町(みなみなかちょう)の現・楢山緑地と秋田市楢山地区コミュニティセンターの場所だ。
ちなみにここは、上記秋田市商業学校の創立地でもあり、茨島移転前まで所在したことになっているが、戦時中~終戦直後は募集停止していたとのこと。
久保田中は、話には聞いてた。秋田駅の真ん前。今の中央通りに面しており、公営駐車場~いろんなビルがある辺りか。
その向かい、現・秋田市民市場付近までは「秋田南高校」。と言っても現・秋田南高校ではなく、現在の県立秋田高等学校のこと。1948年~1953年の間だけ、秋田北高に対して南と称し、1962年に現在地へ移転。
久保田中と手形中が統合して発足した、秋田東中には同窓会のホームページがあって、合併前の両中学校のことも紹介してくれている。
駅前の久保田中校舎は、帝国陸軍歩兵第17連隊の兵舎を改造したもので、1948年4月完成。1947年4月の開校から1年間は校舎がなかったようで、明徳小学校を本校、保戸野小学校を分校としていた(借りていたということ?)。
手形中は、現・秋田東中の場所かと予想したが、地図に載っていない。
これも同窓会ホームページに詳しい。
やはり1947年4月の開校時点で校舎がなく、旭川、広面、添川、藤倉の各小学校校舎を借用していた。添川小、藤倉小は後に閉校。現存する旭川小、広面小は、この地図にも載っているが、どちらも場所は今と違う。
1950年に「現在地に校舎落成」となっている。現在地とは秋田東中の現在地のことでしょうから、やはり予想通り。地図発行の前年だから、掲載が間に合わなかったのか。
終戦まもなく、まだ占領下。土崎以外は空襲の被害がなかったとは言え、この程度は町並みが形成されていて、その地図も作られていたのは、当然なのかもしれないがどこか不思議な感じもしてしまう。
また、国土地理院が作った厳密な地図よりも、緩さというか地元目線というか、生活感があるようにも感じ、楽しく眺められた。
アクセスしてみると、既存のサイト「秋田市観光・イベント情報総合サイト アキタッチ+」の中にあった。https://www.akita-yulala.jp/pickup/5000023535
観光・飲食や文化財のマップ、そして古地図が見られる。前2つは、紙やPDFでも見られるだろうが、ブラウザの画面上でズームやドラッグ(スワイプ)してあちこち移動できるのがいい。
そして古地図は、操作性も同じだが、よそでは容易には見られない貴重なものだと思う。
2つあって文政4(1821)年のものと、昭和26(1951)年のもの。個人的には後者がおもしろい。
当時の秋田市役所が発行し、秋田市立中央図書館明徳館が所蔵する「秋田市街全図」とのこと。
「時系列地形図閲覧サイト 今昔マップ」では、秋田市は明治(1912年)の次は1970年代まで飛んでしまっているので、抜けた終戦直後の時期を見られる。
今昔マップのように、新旧の地図を左右に並べての比較はできないし、そもそも縮尺が地形図のように厳密ではない。【4日補足・奥羽本線北側~羽越本線が、実際より急カーブで描かれているので、南北方向が圧縮されているようだが、東西方向も正確ではないと思う。】
ただし、画面下の「SWITCH」ボタンを押すと、現在のマップの大まかに同じ位置に切り替えることはできる。全面的に信用しないほうがいいでしょう。
その現在の地図は「mapbox」という地図サイトのもののようで、見慣れない地図サイトではあるが、総合的には見やすい。しかし、なぜか神社の表示が控えめな傾向があって、例えば太平山三吉神社の位置には何も文字が表示されない。
秋田市街全図は、秋田駅を地図の上部中央に配置(つまり東が上)し、北は添川、港北小学校、秋田港、南は二ツ屋潟(今の秋田南高校の場所)、新屋駅(他の駅は漢字なのに「あらや駅」と表記)、日吉神社が範囲。
ざっと見て、
・誤記と思われるものもいくつか。外旭川村(当時)の「梶ノ目」を「梶ノ月」、「雄物新橋」が「雄物川新橋」、牛島西の「三皇熊野神社(本宮)」が「三吉神社」。
・雄物川放水路河口の両岸(南のももさだ海岸のほか、北の割山側も)に「海水浴場」がある。→現在は遊泳禁止。離岸流などで危険。
・割山の海水浴場のすぐそばと、現・勝平小学校付近に「入植住宅」。→海水浴場は後の(初代)秋田空港、現・空港跡地付近。冬は厳しかったことだろう。
・工場や学校などがある「茨島」の地名表記がない。当時もあったはず。
・国道7号、13号がなく、牛島~茨島~新国道が「国道第五号線」とされている。→現在の国道番号になったのは、発行翌年1952年だった。当時は東京~福島~山形~秋田~青森が5号だったらしい。一方、今は7号である酒田街道は10号(東京~秋田)だったそうだが、記載はない。
・千秋公園の東向かいに「国立秋田病院」がある。→後の時代に秋田県立の病院ができ、秋田大学医学部附属病院創設時に代役を務めたりいろいろあって、県立脳血管研究センター等、今は県立循環器・脳脊髄センターになったわけだが、その前には国立病院があったってことか? 国立病院は厚生労働省管轄で、由利本荘市道川には古くからあり、今は「国立病院機構あきた病院」。
・その国立病院の隣、今「秋田県総合保健センター」の場所に「進駐軍宿舎」。→当時はまだ占領下か! 占領は翌1952年4月28日まで。隣の「コスモポリタン」ってのも関連施設?
・その他、今はなくなったり名前や場所が変わったりした施設が多数。
さて、今はオフィス街・官庁街の山王。
秋田県庁が移転した1959年時点で、周りは田んぼだったそうだから、この当時も当然。エリア名としての山王さえまだなかった。
今の山王十字路付近
山王十字路は西側がなく丁字路(昔は「八十刈(やそがり)」と呼ばれていたと聞いた)。赤い線は秋田市電。
田んぼの中に高陽(こうよう)中学校と旭北小学校が隣り合う。
位置は今の市立山王中学校、市立旭北小学校の場所。道は異なり、細かい市道がなく、国道(現・県道)から一直線だったのか。
以前記事にしたように、戦後・1947年に新制中学校ができた時、秋田市中央部(と東部の一部)には5つの中学校ができた。しかし、それらは短期間に終わり、1953年に秋田東、秋田南、山王の3校に再編されて現在に至る。
山王中は、高陽中と成和(せいわ)中の2校が統合して創立されたことは、山王中の沿革でも明示されている。
しかし、前身2校についての情報は、ネット上には極めて少なく、正確な創立日や所在地も分からなかった。
身内に高陽→山王の移行期に在学していた者がおり、高陽中の土地と建物がそのまま山王中になったことは聞いていた。成和中については何も知らないとのことだった。いつか図書館ででも調べようと漠然と思っていたが、この地図に高陽中が載ってるということは…
「成和中学校」発見!
国道5号を南へ進んで、旭川を渡って(表記はないが旭橋)、今の茨島交差点の南側(「旭橋通」とある)、書いてないが国道10号に入ってすぐ。国道に面している。
今、ハローワーク秋田に入っていく交差点角のパチンコ屋の辺りだ。
【3日画像追加】地理院地図を東が上に回転。赤い★が成和中跡と思われる位置。道路の線形はあまり変わっていない
(再掲)左が秋田大橋方向・右が山王方向。このもうちょっと左辺り?
(再掲)奥が秋田大橋方向。この枠外・右か?
成和中の裏手には「商業学校」もある。
秋田市立秋田商業高等学校の前身の「秋田市商業学校」らしく、同校沿革に1946年から1957年まで「茨島校舎」だったとある。その後、八橋校舎(現・サンライフ秋田等)を経て、1978年から現在地。
ここは1983年まで秋田経済大学(下北手へ移転し、秋田経済法科大→現・ノースアジア大)があったことは、知っていた。前身の秋田短期大学が1953年に開校した時から、この場所だと思われる。
ということは、元々は秋田市の土地で、成和中廃止&(短大と数年重なるが)秋商移転後、秋田短大へ譲渡されたのだろうか。また、ここの北側、国道(臨海バイパス)沿いには、今も市立茨島体育館と秋田市教育研究所があり、それも名残りなのかもしれない【3日追記・体育館と教育研究所は「県工業指導所」の跡にあるようにも見える】。
臨海バイパスといえば、この地図当時は、それも未開通。旭川の秋田運河合流点手前に架かる、新旭橋もない。工場は建ち並んでいたが、道は川で終わり。
今は住宅も多く、山王中学区である茨島~卸町も、多くが未開発。
となると、成和中の学区は、今で言う旭南、川元、川尻が中心で、みんな旭橋を渡って通学していたのだろう。
長年の疑問が解決した。
ついでに、他の3中学校も探してみた。手形中、久保田中、泰平中。
泰平中は、今の南通亀の町付近、これは秋田南中の創立地(1978年に現在地へ)である、楢山南中町(みなみなかちょう)の現・楢山緑地と秋田市楢山地区コミュニティセンターの場所だ。
ちなみにここは、上記秋田市商業学校の創立地でもあり、茨島移転前まで所在したことになっているが、戦時中~終戦直後は募集停止していたとのこと。
久保田中は、話には聞いてた。秋田駅の真ん前。今の中央通りに面しており、公営駐車場~いろんなビルがある辺りか。
その向かい、現・秋田市民市場付近までは「秋田南高校」。と言っても現・秋田南高校ではなく、現在の県立秋田高等学校のこと。1948年~1953年の間だけ、秋田北高に対して南と称し、1962年に現在地へ移転。
久保田中と手形中が統合して発足した、秋田東中には同窓会のホームページがあって、合併前の両中学校のことも紹介してくれている。
駅前の久保田中校舎は、帝国陸軍歩兵第17連隊の兵舎を改造したもので、1948年4月完成。1947年4月の開校から1年間は校舎がなかったようで、明徳小学校を本校、保戸野小学校を分校としていた(借りていたということ?)。
手形中は、現・秋田東中の場所かと予想したが、地図に載っていない。
これも同窓会ホームページに詳しい。
やはり1947年4月の開校時点で校舎がなく、旭川、広面、添川、藤倉の各小学校校舎を借用していた。添川小、藤倉小は後に閉校。現存する旭川小、広面小は、この地図にも載っているが、どちらも場所は今と違う。
1950年に「現在地に校舎落成」となっている。現在地とは秋田東中の現在地のことでしょうから、やはり予想通り。地図発行の前年だから、掲載が間に合わなかったのか。
終戦まもなく、まだ占領下。土崎以外は空襲の被害がなかったとは言え、この程度は町並みが形成されていて、その地図も作られていたのは、当然なのかもしれないがどこか不思議な感じもしてしまう。
また、国土地理院が作った厳密な地図よりも、緩さというか地元目線というか、生活感があるようにも感じ、楽しく眺められた。
西、南、山王を選ぶ感じになるのがこんなに近いとは。
発展につれ不便になるレアケースではないでしょうか。
このまま生きていたら成和町とかいう独自進化をしたり、スラムダンクも高陽工業とか成和工業だったかも。
泰平中もそのままなら、太平との兼ね合いはどうなっていたのか。
そして、なぜにあの位置で北高校なのかもなんとなくわかった気が。
私は下米町出身です。子供の頃寺町のお寺の入り口にはトマソン物件と化した石橋が数多く見られたのですが江戸の昔は用水路が有ったのですね。
また現在の山王二丁目の場所には堀に囲まれた土地が有るのが興味深いです。町名や建物の名称が詳細に書かれていますが一方で何も記載されていない地区もあり少しばかり闇を感じます。
戦後直ぐの地図は駅前まで路面電車が開通した後でも地元の要望で残していた大工町線と大工町駅が記載されていますね。
GHQ関係の建物と旧軍関係の建物を転用したと思われる施設。また茨島の三徳工業の記載がある地図は初めて見ました。
少し前ヤフオクに1947年撮影の秋田市空中写真が出ていましたが落としておけば良かったと思いました。
少々無秩序ぎみに宅地化されてしまい、学校配置が追いつかなかったところもありそうです。
当時は運河が数十年前にできた頃。そこに成和中や秋商を作ったのは、当時としては思い切った判断だったのかなと思います。将来の発展を見込んだのかもしれませんが、どちらも早くになくなってしまうわけで、見込み違いだったのか。
手形中以外は秋田市にしては独自性あるネーミング(他に明徳や日新がありますが)。太平村は1954年に秋田市に編入されますが、再編時にはそれを見据えていたのかもしれません。
新旧秋田高校については、複雑な経緯があるようで、簡単な話ではないかもしれません。いずれにしても、中央高校はまだ市立、当時の秋田市エリア内では北高は秋田市の北にある県立普通高校ではありました。
>梶の目トランシスさん
こんばんは。いい試みですね。
江戸時代の地図は、達筆すぎたり、知識がないと理解できなかったりする部分もあるものの、住んでいる町だとある程度は想像も付きます。
お寺の配置はほぼ変わっていないですが、寺町が西側の防御機能を担っていたことがよく分かります。その延長線上と言えるのか、保戸野小学校の位置に、今は諏訪神社に合祀された愛宕神社があるほか、その隣にお寺らしきものがあるのは初めて知りました。
大工町は中途半端な終点だと思っていましたが(実際そうだったのでしょうが)、当時の地図の描きかたのせいか、市街地の玄関口の交通拠点に見えなくもありません。あと、他の各電停は表示がないのが意外でした。
三徳工業は今のダイヤプラザの位置。今も東京で存続する企業だそうで、三菱金属進出(1953年)前にそのようなものがあったのは知らなかったです。
地図や航空写真は、後々貴重な記録になるものだと改めて実感しました。できれば誰もが容易に見られる形で残してほしいものです。
>Unknownさん
昔、誰かに軽く聞いた話でしたが、旧制秋田高校(旧制秋田県立高等学校?)というのも短期間あって、それも絡んでくるのですね。ややこしい話です。
各時代の秋田にも、それぞれ思惑があっての判断だったのでしょうが、たしかに別の方向に進んでいたらと考えてしまいますね。
秋田が選ばれたのは既に石油や銅山などを中心にした鉱工業が発展していたからでしょう。
敗戦後校舎や研究施設は商業高校や秋田県の工業技術研究所として活用したのでしょう。
戦中戦後の秋田商業高校と秋田工業高校の経緯に関しては学制の変更もあり複雑のようです。こちらのサイトに記述がありました。
http://akiko-tokyo-doso.main.jp/kanasa23/kns_v23_for_hp/14_KNSv23p17p18.pdf
茨島の地を最初に選んだのは、日満工業高校ということになりそうです。手っ取り早く、秋田運河建設で整地された土地を使うことにしたのでしょうか。