田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

友の父上の死後

2016年03月04日 | 宗教その他
 一昨日の『親の葬儀について考える』の続編です。私の友人G君はクリスチャンです。宗派は憶えておりません。エホバの証人やモルモン教、統一教会ではありません。若いころ知り合った現在の奥様がクリスチャンで、教会へ行くうちに、彼もキリスト教を信ずるようになったそうです。
 
 彼と私は同業で、彼は公務員でした。仕事を習熟したいと相談され、役所の仕事を終え、私が勤務していた会社で研修をしました。幸いに、重役の計らいで、役所の許可を得て、それなりのアルバイト料を払っていました。役所の彼の評判は、勉強熱心との評価が高まりました。しかし彼の本心は、役所を辞め、私と起業したかったのでした。
 
 私達の業務は依頼主に合せねばならぬ神事もあります。しかし、彼がそれに従えぬことは明白でした。私は彼に「役所勤めを続けなさい」と言い続け、それ以上の親交を控えました。
 
 彼の父上が病で入院したことを聞きました。彼は毎晩のように病床を訪れ、父上に改宗を進言したそうです。ほどなくして父上は逝去され、キリスト教による葬儀が行われたと聞きました。
 
 ある日G君が、独立間もない私の事務所を訪れました。私は、父上のお悔やみを申し上げ、父上のお話を聞くことになりました。G君の母上が、毎日毎日「仏壇に手を合わせられず寂しい」と、愚痴を言いながら、塞ぎこむ毎日であることを聞きました。
 
 驚いたことにG君は、仏壇に手を合わせることが、とてもつまらないことのように言うのでした。そのような愚痴を言うことが仏教の愚かさだと言わんばかりでした。私は反論しませんでしたが、一神教の傲慢さを垣間見た気がしました。死の淵にいたG君の父上様が苦しい時に、G君の言葉が父上の耳にはどのように聞こえたのでしょう。哀れに思った私でした。

親の葬儀について考える

2016年03月02日 | 宗教その他
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 今日の朝刊記事。葬儀については、生前中の婆さまとよく話しました。母(婆さま)は『潔(いさぎ)よい最後』をモットーとしていましたので、常に「質素にしてくれ」「立つ鳥跡を濁さず」と言っていました。

 私がブログを始めた理由は「親の葬儀についての備忘録」でした。それは、兄一家と宗教による溝ができてしまったからです。詳しく記している間に、膨大な備忘録になってしまいました。私自身、過去に書いたものを探すのが困難になりました。嫁子ちゃんには「ブログは遺書だよ」なんて言ってましたが、これも、今となっては無理です。そのうちに総集編を書かねば・・。
 
 妻と私は、老後の私達に二つのことを申し合わせています。一つは、葬儀は直送にして欲しい。細かなことは葬儀屋に代行してもらい、息子と娘で取り仕切れば良い。遺骨は、期日にとらわれること無く墓に納めれば良い。墓参りは気の向いた時でよい。愛犬の骨を入れても良いし、万が一、JWに傾倒した兄が納骨を望むなら、望むままで良い。次兄の息子の墓参りは放置してくれれば良い。霊は墓などに無く、無限の大きさ、無限の薄さで宙に漂うものだから・・・。
 
 第二は、難しい病になった場合、老後の資金を食い潰す恐れがあるので、延命の処置をしないで欲しい。ただし、苦痛だけは避けたいのでよろしく。願わくば婆さまのような往生がしたいものです。
 
 この二つは婆さまと話して得たものです。婆さまはニコニコして聞いてました。「わしは辛いことは耐えれるけど、お前は無理じゃな。わしも直送とやらで良いけど、本家には知らせなにゃならんしなぁ・・頼むなぁ・・」と。
 
 母を送り、思い通りにできた私達は、我が家の宗教観と、話が分かる姉がいてくれたからです。兄弟や親戚が多かったら、きっと問題山積と思います。シリーズで、私の知った葬儀の難しさを書いてみます。ご興味ある方お楽しみに。参考になれば幸いです。

宗教行為を商品化 良いことだと思うけどねぇ

2015年12月25日 | 宗教その他
 インターネット通販大手アマゾンジャパンのサイトで、法事・法要で読経する僧侶を手配するサービス「お坊さん便」が始まったことを受け、全日本仏教会(東京都港区)の斎藤明聖理事長は24日、「宗教行為をサービスとして商品にしている」と批判する談話を発表した。

 斎藤理事長は「お布施はサービスの対価ではない。諸外国の宗教事情を見ても、このようなことを許している国はない」と指摘。「アマゾンの宗教に対する姿勢に疑問と失望を禁じ得ない」とした。仏教会はサービスの取り扱いを中止するようアマゾンに要請することも検討している。(共同通信)
 
 この記事の概略は数日前から知っていました。妻と「お坊さん便は良いよなぁ、ウチは仏教じゃないから良く解らないけど、坊さんが来てくれるからありがたいのじゃなくって、ありがたいお経を唱えてくれるからありがたいんだよな。誰だって良いと思うよ」
 
 私の姉の嫁ぎ先の菩提寺の和尚さまは、ひどく高飛車なお方で、葬儀が終わったら、何を置いても真っ先にお礼に伺わないと、ひどく叱責されるそうです。決して安いお布施じゃないから、村の人達はひどく怒っているそうです。坊さんの入札はできないし、アマゾンも良い所に目をつけたと思います。
 
 私の母の葬儀では、葬儀屋さんが「神主の先生、お一人20万で、お一人という訳にはいきませんので、お三人さん・・・」ここで話を遮りました。「20万、高すぎます!。故郷の神主に依頼しますッ!」ってことでした。葬儀屋さんの言いなりで、60万払ったら、きっと母が枕元に立ったと思います。母はきっと『どうして、死に行くものに、そんな高い銭をはらわにゃならんのだ!』
 
 「宗教のあり方を考えねば」なんて言われているけど、自分に必要かどうかは、己で決めるべきなんだとオイラは思います。決して他人から強要されるものじゃないし、自分が精一杯したことを、どうして他人の指図を受けねばならぬのでしょう。

『自宅送り』今朝の新聞記事を読んで

2015年12月07日 | 宗教その他
 私の廻りだけかもしれませんが、自宅送りとは、ご遺体を自宅へ送ることを言います。近年、多くの人が病院や施設でお亡くなりになることが多く、医師の死亡診断を受けた後の、ご遺体の処置のことです。
 
 多くの病院の人目につきにくところに、解剖室があります。施設内では、剖検室といわれる部屋の隣に、たいていは霊安室が設けられています。ご遺体を一時安置する部屋ですが、病理解剖をするためのご遺体用でしょう。
 
 お亡くなりなったご遺体を、病室から自宅へ移すことは、遺族で行わねばなりません。今の病院や施設では、葬儀社を紹介してくれませんので、もしもの場合を考えて、電話番号くらいはメモしておいたほうが良いように思います。
 
 葬儀社の広告に「24時間対応」とか「自宅送りサービス」などと書かれていることを目にします。これは、夜中でも宿直が対応、自宅以外の場合は葬儀社が営む斎場の霊安室、もしくは、葬儀やお通夜のお部屋が使えることを意味します。
 
 私の住む街の火葬場周辺には、公営の他、民間斎場がいくつもありますが、部屋はそれぞれ大きさが異なり、場合によっては大きな部屋しか空いていないときもあります。部屋の大小で金額に大差はありませんが、大きな部屋で参列者が少ないと、寂しいお葬式と思われがちです。逆に小さなお部屋に大人数が参列すると、混雑してこれまた大変です。
 
 お葬式の諸費用は、参列者への費用で決まりそうです。早めに考えられることを準備するのは、決して悪いことではないと思います。
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どこか狂ってるゾ!現代社会、宗教とマスコミ

2015年12月01日 | 宗教その他
 サウジアラビアで詩人のアシュラフ・ファヤド氏が、作品中で神を冒涜したなどとして、死刑を言い渡されたそうです。一国一宗教の怖さですね。このように、近頃何でもかんでも、決められた枠に収めようとする動きが多すぎて、ひねくれ者の私には、世の中、狂っているようにしか見えません。
 
 どこかの市会議員が、同性愛者に対して差別的な表現をして吊るしあげられていました。彼は「生物の根底を変える異常動物だ」とツイッターで公開。思うのは自由だか、公開してはいけないと思います。なぜなら、彼は公人だから、同性愛者に対しても、別け隔てなく働く義務があるからです。偏見な思想な持ち主だとすれば「生物の根底を冒涜した」なんて言い出すよ。
 
 しかし、誰しもが見ることのできるテレビなどで、明らかに同性愛を売り物にしているのはいけないと思います。大人だから「テレビも商売だから、客寄せの口上だぜ」と思いつつも、嬌声と大声の馬鹿騒ぎに、嫌悪感さえ覚える私です。こんなの見せられたら、まっとうな姿勢も変わると思います。
 
 宗教に関して更に言えば、「師は~と語る」とか「昔から言われている」とか、極めつけは「バイブルはかく語る」など、一見正しそうな物言いが目立ちます。何度も言いますが、自分の思いにそって考えるのは自由ですが、他の物を根拠に、楽しく団欒している人達へ騒動を持ち込んだり、ムチ打ち、果ては死刑を言い渡すのは大間違い。これを喜ぶ人達は『正しいか正しくないかより、議論に勝つことに快楽を得ている』ように見えます。『ハイ、論破』嫌な言葉です。こんなこと誰も認めず、聞かなきゃ良いのですがねぇ。
 
 さて、私のお気に入りのコメンテーターでしたが、先のオーム信者に対する判決に、「裁判長は、裁判員裁判の判決に不服なのであろう。だから、真逆の無罪を言い渡したに違いない。判決はプロの裁判長が言い渡すものであるから、素人は黙っておれ、これが彼の考えだろう」とラジオで言い切ってしまいました。それを聞いて、私は『最低のコメンテータ』の烙印を押しました。しかし、『よくぞ言った』と喜ぶ人もいるでしょう。これはもう、立派なアジ演説ですね。アジの開きだったら好きですが、アジ演説がまかり通る、狂った社会には、気をつけねばと思う、今日このごろです。