17日 金曜日、風邪気味の妻に代わって、母を見舞いました。そのとき見舞った様子をブログにアップしました。当然ながら、状況は良くありませんでしたが、命が消えかかる時が近づいていることは明らかでした。
17日夕刻、妻と早めの夕食、6時頃でした。施設から電話がありました。「呼吸が浅くなりました。来ていただけませんか。」とのことでした。私は「わかりました。軽く食事して伺います。」と答え、急いでお茶漬けを流し込みました。妻と出ようとしたとき、デイ部門のGさんから「急いでください。」と催促の電話がありました。「はいはい、これから出ます。安全運転で行きます。」と答えました。自宅から施設まで7、8分です。来るべき時が来たのです。
エレベーターで9階、廊下に心電計の乾いた電子音が響いていました。室には師長さんがいました。「午後、急激に悪くなりました。」と教えてくれました。私と妻はベッドを挟んで、母の顔を見ました。目を瞑り、開いた口の呼吸は、ほとんど感じられませんでした。時々首下の筋肉が小さく痙攣していました。
室に入って15分も過ぎていませんでした。師長の「心電計がフラットになりました。お二人の気配を感じられたみたいです。お母さんは待ってらしたのかしら・・・。こんな最後を見るのは始めてです。お嫁さんを感じて、安心なさったのかなぁ。」と、少し涙ぐんでいるような気がしました。
勤務を終えて帰り支度の職員さん達が、続々と室に集まりました。担当のOさんが「お母さんはここの人気者でしたので・・・。」若いヘルパーさんや職員の方が母に別れを告げていました。つい私もこみ上げるものがありました。7時30分頃、母体病院の院長が入室して、最後の診断がされました。院長が「きっと痛みはあったと思うが、辛抱強い人でしたねぇ。では、7時30分を臨終の時間とします。」と死亡が宣告されました
師長と看護師、ヘルパーさん達が「お母様をきれいにします。1時間ほどお時間をください。」と室の扉が閉ざされました。私は、かねて考えていた葬儀社へ電話をしました。「9時には湯灌(ゆかん)が終わるそうだから、その頃来て下さい。」私と妻は室の前の詰め所で待ちました。入れ替わり、職員さんの弔問を受け、あらためて母の人気ぶりを知りました。
9時少し前に「田神さん、見てください。」と師長に促され、室に入りました。黄疸が強く出ていた顔色も、ファンデーションで整えられ、落ちた顎も綺麗にしてありました。入れ歯もいれてあり、口紅もさしてありました。少し前の、衰える前の母の笑顔がありました。
葬儀社のストレッチャーに乗せ、エレベーターで降りました。1Fのデイケア室に、夜勤職員がたくさん集まっていました。最後に母の顔を見せました。皆が見送ってくれました。そして、私と妻は、斎場の安置室に向かったのでした。
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記憶が薄らぐ前に母の葬儀について書こうと思います。ところが、何かと雑用があります。仕事の締め切りは伸ばせません。今までのように、毎日アップはできそうにもありません。シコシコ書きますので、楽しみにしてください。どうぞよろしくねぇ・・・。
17日夕刻、妻と早めの夕食、6時頃でした。施設から電話がありました。「呼吸が浅くなりました。来ていただけませんか。」とのことでした。私は「わかりました。軽く食事して伺います。」と答え、急いでお茶漬けを流し込みました。妻と出ようとしたとき、デイ部門のGさんから「急いでください。」と催促の電話がありました。「はいはい、これから出ます。安全運転で行きます。」と答えました。自宅から施設まで7、8分です。来るべき時が来たのです。
エレベーターで9階、廊下に心電計の乾いた電子音が響いていました。室には師長さんがいました。「午後、急激に悪くなりました。」と教えてくれました。私と妻はベッドを挟んで、母の顔を見ました。目を瞑り、開いた口の呼吸は、ほとんど感じられませんでした。時々首下の筋肉が小さく痙攣していました。
室に入って15分も過ぎていませんでした。師長の「心電計がフラットになりました。お二人の気配を感じられたみたいです。お母さんは待ってらしたのかしら・・・。こんな最後を見るのは始めてです。お嫁さんを感じて、安心なさったのかなぁ。」と、少し涙ぐんでいるような気がしました。
勤務を終えて帰り支度の職員さん達が、続々と室に集まりました。担当のOさんが「お母さんはここの人気者でしたので・・・。」若いヘルパーさんや職員の方が母に別れを告げていました。つい私もこみ上げるものがありました。7時30分頃、母体病院の院長が入室して、最後の診断がされました。院長が「きっと痛みはあったと思うが、辛抱強い人でしたねぇ。では、7時30分を臨終の時間とします。」と死亡が宣告されました
師長と看護師、ヘルパーさん達が「お母様をきれいにします。1時間ほどお時間をください。」と室の扉が閉ざされました。私は、かねて考えていた葬儀社へ電話をしました。「9時には湯灌(ゆかん)が終わるそうだから、その頃来て下さい。」私と妻は室の前の詰め所で待ちました。入れ替わり、職員さんの弔問を受け、あらためて母の人気ぶりを知りました。
9時少し前に「田神さん、見てください。」と師長に促され、室に入りました。黄疸が強く出ていた顔色も、ファンデーションで整えられ、落ちた顎も綺麗にしてありました。入れ歯もいれてあり、口紅もさしてありました。少し前の、衰える前の母の笑顔がありました。
葬儀社のストレッチャーに乗せ、エレベーターで降りました。1Fのデイケア室に、夜勤職員がたくさん集まっていました。最後に母の顔を見せました。皆が見送ってくれました。そして、私と妻は、斎場の安置室に向かったのでした。
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記憶が薄らぐ前に母の葬儀について書こうと思います。ところが、何かと雑用があります。仕事の締め切りは伸ばせません。今までのように、毎日アップはできそうにもありません。シコシコ書きますので、楽しみにしてください。どうぞよろしくねぇ・・・。
大往生とは言え、お別れは寂しいものですね。
祖母の時のことを思い出してしまいました。
気丈な、お母様だったとはいえ、皆に見送ってもらえて、喜ばれていると思います。
今はただ、心から、ご冥福をお祈りいたします。
お見送りをした後の、ご遺族は、落ち着いた頃に疲れが出ます、一年で一番寒さの厳しい季節、どうぞ、グッチさんも奥様も体調など崩されませんよう無理なさらずに、お体ご自愛ください。
母の遺言 ほぼ完璧に実行できたように思います。
私達は、体に気をつけています。
だから、今晩の夕食は、少し高級なお肉のしゃぶしゃぶ
もちろん、カロリー的食生活で750Kcalでした。
先ほどコメント投稿したが反映されてません。
もしかしたら、二重投稿になるかな・・・・・・・。
グッチさんと奥様と会ってから。。。と
きっと待ってくれていたんだと思います。
みなさんに慕われてお見送りしていただいて
きれいにお化粧していただいて笑顔のお母様。。。
グッチさんご夫婦の温かな心にふれて毎日を
過ごされたお母様はお幸せだったと思います。
御霊様安らかにしずまりませとお祈りします。
喪の期間は心身の負担で疲労しやすいものですので
どうかくれぐれもお体ご自愛してください。
三人目の孫娘です。
天寿を全うし去りゆく命、新たに始まる命、
綿々と続く命の営みの不思議に、無い頭を巡らせています。
多くの人の心に生きておられるお婆様のお姿
あっぱれでございました。
ご冥福をお祈り致します。
多くの方に愛されて、天寿を全うされたお婆様。
きっとたくさんの愛を皆様に注いでおられたんでしょう。
私もこの年末年始、母たちと、お墓参りお寺、本家の仏壇と一緒に行くことができました(毎年行ってはいましたが、今回は子供の頃と同じように参ってきました)
寒い日が続いています。
常識のない私ではわからない(これから勉強します)
いろいろな御用がおありなんですよね。
奥様とお体を大切に、ご自愛くださいませ。
母が「あわてるな、少しは待つから・・。」かなぁ、
身びいきだけど、見事な往生だと思う。
心配してくださりありがとうございます。
今晩の夕食はステーキだそうです。
きっと長命ですよ。
母が施設の若い人達に好かれてたことを知りました。
若い子達が泣いちゃうので、
「母は、涙の無い葬儀を求めてるのだけど・・・。」と
私も、ついこみ上げる嗚咽を、ぐっとこらえました。
生きることの素晴らしさが少し見えた。
大正の女は強い、実感した。少し見習う私です。
新聞に「お悔やみコーナー」があります。
それを読んで、遠方から駆けつけてくださった人に
平身低頭・・・・・・。明日もあるかなぁ・・・・・・。
ありがたいことだが、申し訳なく思う私です。