聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




フィリピ3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

この手紙を書いたパウロは、かつて、イエス様を信じるクリスチャンたちを迫害していた人物でした。それは、彼が、生粋のヘブル人であり、いわゆるエリートと呼ばれるような教育を受けてきていたからでもありましょう。
エリートであるが故に、自分が正しいと思い込み、考え方の違う者たちを非難していくということは、いつの時代にも見られる事柄であると言えます。
しかし、そんなパウロが、十字架の主、復活のイエス・キリストと出会うことによって、今まで価値ある物と思っていた事柄が、塵あくたと思うほどに価値観を変えられていったのです。
これは、大きな人生の転換であったと言えるでしょう。

私も、時々、パウロのような優れた人物になりたいなあと願うことがあります。知恵や知識に富み、語学や才能にも優れ、そして、クールに振舞うことが出来たなら・・・。
でも、パウロは、「そんなことはどうでも良いのだ、人間の業によるのではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があれば、それが全てであり、それ以外のものを幾ら携えていても、塵あくたに過ぎない。」と語っているのです。
私が優れた人物になる必要はない。必要があるなら、神様が賜物としてお与え下さることでしょう。
そう思うと、少し、気も楽になります。
もちろん、与えられた賜物や務めは、委ねられたものとしてきちんと管理しますます豊かに用いられていくようにとは願っています。
私の人生を通しても、主イエス・キリストの栄光が崇められますように祈ります。

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