沖縄・辺野古への米軍基地移設をめぐり政府と沖縄県が対立する中、20年前に起きた米兵による「少女暴行事件」の時の外相だった河野洋平氏(78)が朝日新聞のインタビューに応じた。当時、日米地位協定の改定や兵力の大幅削減の方向に踏み込めなかったことを「沖縄の情勢や県民の意思が米国にどれだけ伝わったか」と悔やみ、辺野古移設について「つくれば20〜30年は使うことになる。100年も外国の基地を抱えるなどあり得ない。沖縄から基地をなくす方向に進むべきだ」と語った。

 河野氏の外相就任は1994年、自民、社会、さきがけ3党の連立政権誕生の時。社会党の村山富市氏が首相指名された日、自民党総裁だった河野氏とさきがけの武村正義氏が呼ばれ、蔵相と外相のどちらかを2人で引き受けてほしいと頼まれたという。

 知米派の宮沢喜一・元首相(故人)に相談したところ、社会党政権の誕生で米国は対日関係に不安を持っているから、自民党が外相を引き受け、日米関係は従来通りとの姿勢を示すしかないと言われたという。

 翌95年9月、沖縄で3人の米兵が小学生の少女を暴行する事件が起きた。問題となったのは、駐留米軍の権限を定めた日米地位協定。米軍関係の被疑者の拘禁は日本の検察が起訴するまでは米国が行う、という条項だった。

 事件直後に河野氏を訪ね、協定見直しを訴えた大田昌秀・沖縄県知事(当時)に対し、河野氏は「議論が走りすぎている」と改定の考えがないことを伝えた。河野氏の回答は、地元で強い怒りを買った。

 「モンデール駐日大使(当時)とは懇意で沖縄の問題も頻繁に話し合った。協定改定を何度も申し入れたが『絶対にできない』との返事だった。ほかの駐留先の国との地位協定もあり、日本だけ変えられないとのことだった」。モンデール氏は謝罪し、捜査への協力を約束したが、条文改定には応じず、運用面の改善にとどまった。河野氏は、それ以上強く言えなかった理由について外相就任の経緯に触れ「当時も日米関係は非常に重要だという意識があった」と話す。