どこまで教えるべきか

2007-08-10 | 社労士日記
サッカーに限らず、指導というのは難しいものです。

指導が過ぎると依存心まで育ってしまうこともあるでしょうし。

時と場合によっては答えの導き方をみせる必要もあるだろうし。

いずれにしてもコミュニケーションを深め意思疎通ができる関係が重要ですね。


***** 日経朝刊より ここから *****
『フットボールの熱源 どこまで教えるべきか』
英国で人に道を尋ねると、懇切丁寧に教えてくれることが多い。レスターでお年寄りにスタジアムへの道を尋ねたときのこと。「説明しにくいなあ」と言うと、レンタカーの助手席に乗り込んできてナビゲーター役を務めてくれた。「ちょうど、同じ方向の病院に行くところだから構わない」ということだった。
レスターのお年寄りには悪いが、この教え方を教育・指導の論点に立って考えてみると疑問符が付く。「ここをこうして、こうやって」と手取り足取り教え込み、答えまで示してしまう指導法では考える力は養われない。日本代表・オシム監督が求める「考えながら走る選手」は育たない。
同じころシェフィールドではこういうことがあった。手持ちの地図を示して、青年に「競技場はどっち?そもそも私はいまどこにいるのでしょう」と尋ねると、「付いて来い」という。私は地図の外にいたらしい。
それにしても、歩いて遠距離を案内してもらうのは悪いなあと恐縮していると、ある交差点で立ち止まった。「はい、これであなたは地図の中に入った。あとはわかるだろう」。そこから先は自力で進めというのだ。
問題を解こうとしてもどこから取りかかっていいのか見当も付かない子はいる。「自分で考えろ」と言われても困惑してしまう選手もいる。その場合、指導者は「この子は地図の外にいるのではないか」ということを察してあげなくてはならない。そして地図の中まで手引きをしてあげる必要がある。しかし、導くのはそこまで。
日本ではサッカーが遊ぶものからスクールで教わるものになり、しばらく前から教えすぎが問題視されている。指導者は「どこまで教えるべきなのか」と悩む。「ここまで」という単純な答えがないから難しい。(吉田誠一)
***** 日経朝刊より ここまで *****



携帯から超文投稿してみましたが…指が(*_*)
コメント
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