壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

憂きわれを

2011年11月15日 22時36分40秒 | Weblog
          伊勢の国長島大智院に信宿す
        憂きわれをさびしがらせよ秋の寺     芭 蕉        
 前書から見て、明らかに大智院に対する挨拶として発想したもの。「秋の寺」では落ち着かないから、下五は「秋の鳥」と判読すべきではないかという説があったが、それでは挨拶の作意が全く生かされないことになる。
 中七の「さびしがらせよ」は、「さびしがらせむ」に近いところなのであろうが、それによって更に深いさびしさに住しようというもので、挨拶の句として、相手を意識した表現をとっているのであろう。
 『随行日記』によれば、芭蕉は九月六日から大智院に三泊、七日には「俳有り」とあることから見て、七日の作か。

 「大智院」は、曾良の伯父が住職であった寺。山中温泉で芭蕉に別れ先発した曾良は、八月十五日大智院に至り、以後、九月一日まで同院に身を寄せていたと推定されている。
 「信宿」は再宿、二晩泊まりの意。

 「秋」の句、雑。「秋の寺」という季語の用い方は、十分熟したものとはいえないし、「さびしがらせよ」と即(つ)きすぎる嫌いがある。

    「奥羽、北陸の長途の旅を終えて、自分はいま曾良ゆかりの大智院に身を
     寄せているが、折からの深秋の気配に、この寺もひっそりと静まりかえっ
     ている。自分も、この秋の寺の深い静けさの中にひたりきり、世を憂しと
     観ずる心を、更に透徹したさびしさとして深めたいと思う」


      吾が逝けば癌よお前も冬日向     季 己

『去来抄』9 続・すずしさの

2011年11月14日 23時18分17秒 | Weblog
        すずしさの野山にみつる念仏哉     去 来

 ――「M通信」の編集長Mさんは、その時の気分を大切にしているためか、いったん書いたら改めない。と言うよりも、本人は読み返していないようだ。書いたら書きっぱなし、誤字・脱字があろうとおかまいなし。実におおらかな人物である。

 俳人の場合でも、己の意にかなうまで何度も推敲を重ねる人と、その場の雰囲気を大切にするため、いったんつくったらあまり改めない、という人がある。
 芭蕉先生は、自分の句もそうであるが、門弟の句の添削も一度にとどまらず、何度も練り直したようである。

 毎年六月二十三日、京都・真如堂で出開帳がおこなわれた。元禄七年六月二十三日の、善光寺ご本尊阿弥陀如来の真如堂への出開帳の際、去来は次のような句をつくった。
        ひいやりと野山にみつる念仏哉     去 来
 すると芭蕉先生、
 「こういうときの釈教句は、全体をおだやかにつくるものだ。この上五の五文字は適切ではない」と言って、
        風薫る野山にみつる念仏哉
と、直してくれた。
 「ひいやりと」は、その日の去来の実感だったであろうが、あまりに人間的、体感的であり、寺が再興される気分の盛り上がりをかえって弱めている。
 そこで、「風薫る」という爽やかな語にかえたのであろう。しかし、「風薫る」では「野山」だけにかかって主格の「念仏(ねぶつ)」に響かない。したがって「おだやかさ」は、表現し得ていない。
 というようなことで、意に満たなかった芭蕉先生はさらに、『続猿蓑』の撰をするとき、もう一度添削して、
        すずしさの野山にみつる念仏哉
と改めて集に入れてくれた、という。

 ところが、『続猿蓑』には、巻之下の「釈教之部」に、
          洛東の真如堂にして、善光寺如来開帳の時、
        涼しくも野山にみつる念仏哉     去 来 
と見える。
 そうすると、この句には、

        ひいやりと野山にみつる念仏哉
               ↓
        風薫る野山にみつる念仏哉
               ↓
        すずしさの野山にみつる念仏哉
               ↓
        涼しくも野山にみつる念仏哉

の四通りの上五があることになる。
 俳句は短詩型のため、一部分の変更が、一句を生かしも殺しもする。一語といえども、影響は全体に及ぶ。添削するなら、そうしたところまで推し量って改めなければならない。どんな語句や表現がよいかは、他の部分との響き合いの中できまるのだ。

 さて、「すずしさの」が「涼しくも」となると、印象はどう違ってくるだろうか。
 「すずしさの」は、「みつる」の主語であるとともに、「念仏」の形容となる。つまり、執り行われている法要の、、ありがたい、さわやかな情緒が野山にひろがってゆくような感じになり、「涼しさ」は季節感のみならず、念仏の声の涼しさにも通って、新しいものが生まれるのを喜ぶ法要の気分とがみごとに調和する。
 「涼しくも」は、「念仏(ねぶつ)」のみを形容することになり、「野山」は「念仏」によって「涼しさ」を獲得し得ているとの構造の一句となる。
 釈教句としては、「念仏」の「おだやか」さは、この句形のほうが、的確に表現し得ており、焦点が定まっている。
 ただ、涼しさのひろがる感じがより強い「すずしさの」も捨てがたい。 


      豚汁と七味のかをり酉の市     季 己

『去来抄』9 すずしさの

2011年11月13日 20時52分25秒 | Weblog
        すずしさの野山にみつる念仏哉     去 来

 これは、善光寺ご本尊である阿弥陀如来が、京都の真如堂にお移しされ、お開帳があった日に詠んだもので、最初、上五は「ひいやりと」であった。
 先師は、「こういうときの句は、全体をおだやかにこしらえるものである。この上五はふさわしくない」といって、「風薫る」と改められた。
 それから『続猿蓑』を撰したとき、さらに「すずしさの」という今の上五に直して、集に入れられたのである。


     林檎の香ひろがるや空そこぬけに     季 己

黄金花咲く

2011年11月12日 22時47分39秒 | Weblog
                      大伴家持
        天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
          みちのく山に 黄金(くがね)花咲く
 (『万葉集』巻十八)

 大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首並びに短歌」をつくった。長歌は百七句ほどの長編で、結構も詞(ことば)も骨折ったものであり、それに反歌が三つあって、これは第三のものである。
 一首の意は、天皇(聖武)の御代が永遠に栄える瑞祥として、このたび東(あずま)の陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。
 この短歌は余り細かいことに気を配らずに一息に云い、言葉の技法もまたおとなしく素直だから、荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれていると思う。
 結句に、「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのも、この場合、非常に適切である。
 これらの力作をなすにあたり、家持は知らず知らず、人麿や赤人など先輩の作を学んでいたに違いない。


      幸せの黄色も須川りんごかな     季 己

妹が手まかむ

2011年11月11日 21時05分42秒 | Weblog
                 作者不詳
        さを鹿の 入野のすすき 初尾花
          いづれの時か 妹が手まかむ 
(『万葉集』巻十)

 この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容である。「いつになったら、恋しいあの娘の手をまいて、一緒に寝ることができるだろうか」という感慨をもらしたものだ。
 上の句は序詞で、鹿の入ってゆく入野(いりの)、入野は地名で、京都・大原野に入野神社がある。その入野の薄(すすき)と初尾花(はつおばな)と、いずれであろうかと云って、「いづれの時か」とつづけたので、ずいぶん煩(うるさ)いほどな技巧をこらしている。こういう凝った技巧は、今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。
 しかし、この歌で心ひかれたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手まかむ」の句にあったのである。
 聖徳太子の歌に、
        家にあらば 妹が手まかむ 草枕
          旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ
があった。


      ブログ打つ十指に小春日和かな     季 己

『去来抄』8 続・清滝や

2011年11月10日 23時00分07秒 | Weblog
        清滝や浪にちりなき夏の月     芭 蕉

 ――昨日の変人訳、『去来抄』の原文に忠実に口語訳したつもりだが、ご理解いただけたであろうか。当の変人が読み返しても、腑に落ちない点がいくつかあるのだから……。
 それにしてもこの一条、少々やっかいである。同じエピソードを伝える支考の『笈日記』と、内容が大幅に違うのである。去来が意図的に仕組んだものか、あるいは去来の筆不足とも考えられる。
 
 一番の問題点である箇所の原文を見てみよう。
      「過ぎし比(ころ)の句に似たれば、清滝の句を案じかへたり」
 「過ぎし比の句」と「清滝の句」が明示されていないため、文意が明らかでないのだ。

 もう一点。「清滝や」の定稿は、「清滝や波に散り込む青松葉」であるのに、それを『去来抄』に掲げていないことは、決定的な不備、あるいはミスといってよい。それどころか、『去来抄』の掲出句形、「清滝や浪にちりなき夏の月」が、最終句形、つまり定稿のごとき誤解を招くことになる。

 思うに、「過ぎし比の句」というのは、「清滝や浪にちりなき夏の月」で、「清滝の句」は、定稿の「清滝や波に散り込む青松葉」を指すのであろう。すると、
       先ごろ、「しら菊の目にたてて見る塵もなし」という句をつくったが、
       これは以前つくった、「清滝や浪にちりなき夏の月」に似ているから、
       「清滝や波に散り込む青松葉」と作り直した。(「しら菊」の句を改案
       するわけにはいかないので)
ということで、理解可能になる。

 去来がこの一条で伝えたかったのは、土芳の『三冊子』に見える芭蕉のことば「他の句より先(まず)、わが句に我が句等類する事をしらぬもの也」の、具体的検証ということであったであろう。「等類」というのは、俳諧などで、素材・趣向が他の句と類似すること、つまり、今でいう「類句・類想」である。
 今日においても、このことは非常に重要なことである。私たちはふつう、他人の句との類似関係には、かなり神経質になるが、「自分の句との類似関係」に対しては、どうしても寛容になってしまう。自分が以前つくったのと似た句をまたつくってしまう、ということも少なくない。「いい表現」を思いつくと、つい繰り返し使いたくなる。これらは作者自身のマンネリズムにつながり、新しい詩の創造者になることはできない。

        清滝や浪にちりなき夏の月     芭 蕉 
        しら菊の目にたてて見る塵もなし     芭 蕉 

 この二句、類句・類想であろうか。
 芭蕉は、「塵なし」という部分が気になったのである。清らかで汚れのないさまを表すのに「塵なし」は、実に新鮮な表現である。しかし、新しさを求めつづける芭蕉は、自分の発見したものであっても、同じ表現をまた別のところで使うというのは、自分で自分が許せなかったのだ。
 いい表現は一度だけ、最も効果のあるところで使う。これが芭蕉のやり方なのである。
 「塵なし」は、白菊に使ってこそ効果があると、芭蕉は考えたのである。この句は、元禄七年九月二十七日、大坂の園女の家で歌仙の興行があった時の発句である。白菊は、庭かその席で目にしたものであろう。清楚な菊の美しさをたたえながら、園女の人柄や心づかいをほめた大切な挨拶吟なのである。だから、後続作品である「しら菊の」を残して、先行の「清滝や」を改案したのである。俳諧は、あくまで座の文芸であることを教えられる。

 芸人の世界では、同じ芸を何度やっても喝采を受ける。だが、美術や文芸の世界では、同じことを何度もやると、やれ二番煎じだ、マンネリだといちゃもんをつけられる。そこがつらいところであるが、芸術の芸術たるゆえんだとも言える。
 私たちは芸術院会員を目指すのではなく、芭蕉のように、詩人の精神を生きた人になりたいものである。


      外すずめ何して遊ぶ冬の雨     季 己 

『去来抄』8 清滝や

2011年11月09日 21時09分22秒 | Weblog
        清滝や浪にちりなき夏の月     芭 蕉

 先師が、難波の病床に私(去来)を呼んでいわれるには、
 「さきごろ園女(そのめ)の家で、〈しら菊の目にたてて見る塵もなし〉という句をつくった。これは、以前につくった句に似ているので、その清滝の句をつくり直した。はじめの草稿が野明(やめい)のところにあるはずだから、取り戻して破って欲しい」
と。
 しかしながら、この時はもう、あちこちの集に載せられてしまったので、破棄することはできなかった。名人が、いかに句に心を用いられるかは、これでもわかるだろう。


      大腸癌 十一月の吹きだまり     季 己

雨に相撲も

2011年11月08日 22時42分35秒 | Weblog
           浜
        月のみか雨に相撲もなかりけり     芭 蕉

 口から流れ出た独り言が聞こえてきそうな、軽い味の作品である。
 元禄二年八月十五日、敦賀での作。敦賀に泊まった十五日、「亭主の詞にたがはず雨降る」という雨月の夜、晴れだったら、この浜で相撲などが予定されていたものであろう。

 季語は「月」で秋。この場合は「なかりけり」に呼応し、無月のわけである。「相撲」も秋季であるが、一句は、無月のうらみを主としたものととりたい。

    「今宵、せっかくの名月の夜だというのに、月が出ないばかりか、このにくい
     雨のせいで楽しみにしていた相撲まで、惜しくも取りやめになってしまった」


      立冬の今日の日和の病むにほひ     季 己

浮身宿

2011年11月07日 21時09分47秒 | Weblog
          北国にて
        海に降る雨や恋しき浮身宿     芭 蕉

 『曾良随行日記』によれば、七月二日新潟へ着く前日は雨で、特に夜は「甚強雨ス」というような天候であり、着いたその日は「一宿ト云(いう)、追込宿之外は不借(かさず)。大工源七母、有情(なさけあり)、借(かす)。甚持賞ス」という情況であった。
 海の面に降りそそぐ雨は、見も心も滅入るようにわびしく、旅の辛さが身に沁みたにちがいない。その夜、大工源七の母あたりから、浮身宿(うきみやど)の話を聞いたのであろう。
 旅中、女性のやさしさに接することもなく来て、いつしかきざしはじめていた一種の飢餓感に、越(こし)にあると聞いていた浮身宿のさまが偲ばれたのであろう。
 旅商人と遊女との一月(ひとつき)ほどの語らい、そういう仮の語らいが短ければ短いだけ、あわれ深く芭蕉には感じられたに違いない。
 『おくのほそ道』では、芭蕉のこのような心の傾きは、やがて市振の章で一つのかたちを与えられるのである。

 「浮身宿」については、『藻塩草』に「越前・越後の海辺にて、布綿等の旅商人、逗留の中女をまうけ、衣の洗ひ濯ぎなどさせて、ただ夫婦のごとし。一月妻といふ類ひなり。此の家を浮身宿といふなり」とある。

 この句は、季語がなくて「雑」の句である。『去来抄』の「恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきものなり」ということばからすれば、恋の句となろう。ただよう情感は、秋を感じさせるようなしみじみした趣である。

    「海に雨が降りそそいでいる。この雨のわびしさを見ていると、伝え聞く
     浮身宿での女の生き方が今さら哀しく、何か心ひかれる気持で、しきり
     に思い出されてくる」


      日光の人より賜ふ自然生     季 己

昔見し

2011年11月06日 22時21分06秒 | Weblog
                  大伴旅人
        わが命も 常にあらぬか 昔見し
          象の小河を 行きて見むため (『万葉集』巻三)

 吉野川右岸の上市から、四キロメートル余り吉野川をさかのぼると、吉野の宮の跡と推定されている宮滝があり、その対岸に喜佐谷がある。
 象(きさ)の小河は、吉野山中に発してこの喜佐谷を流れ、吉野川に入る川だとされている。
 
 この歌は太宰師(だざいのそち)大伴旅人が、筑紫太宰府にいて詠んだ五首の中の一つである。
 一首の意は、「わが命もいつも変わらずありたいものだ。昔見た吉野の象の小河を見んために」というので、「常にあらぬか」は文法的には疑問の助詞だが、このように疑うのは希(ねが)う心があるからで、結局、同一に帰する。
 「昔見し」という経験は、大和の宮廷の方々は、しばしば吉野の宮に行幸されたので、その時に旅人は、何度か天皇に従って、吉野を訪れているのであろう。そして、年を経て、命を長らえて寧楽(なら)の京(みやこ)に戻り、もう一度、象の小河を見たいものだ、というのだ。

 この歌はわかりやすい歌だが、平俗でなく、旅人の優れた点をあらわし得たものであろう。哀韻もここまで目立たずにこもるのは、歌人として第一流であるからであろう。


      陀羅尼助 口にふくむや蚯蚓鳴く     季 己
 

身に入む

2011年11月05日 21時12分51秒 | Weblog
          赤坂の虚空蔵にて、八月二十八日、奥の院
        鳩の声身に入みわたる岩戸かな     芭 蕉
 

 奥の院は、岩をえぐって造ってあったものであろう。鳩は山鳩として聞くと、「身に入む」がいっそう引き立つように感じられる。

 「赤坂」は、岐阜県不破郡赤坂町の金生山明星輪寺宝光院。『おくのほそ道』旅中の作で、元禄二年八月二十八日の詠。
 「身に入む」は、骨身に徹して痛切に感じられる意で、季語としては、秋気が身に冷え冷えと沁みて、あわれを感じさせるのをいう。嘱目の実感であろう。

    「虚空蔵菩薩をまつった奥の院の岩戸に詣でると、陰暦八月も末に近い
     こととて、木立に鳴く山鳩の声までが、秋気を深く感じさせることだ」


      しんしんと床の間冷ゆる観世音     季 己

腰の綿

2011年11月04日 22時41分27秒 | Weblog
        初霜や菊冷え初むる腰の綿     芭 蕉

 この句、『荒小田』に「此の句、羽紅のもとより、腰綿をつくりて贈られし返事なり」と注記して収められている。他には出ていないという。
 秋冬の頃、京近辺にあった時期で、かつ、羽紅の夫凡兆との関係などから、元禄三年の作と推定できる。

 凡兆の妻羽紅から腰綿を贈られ、その厚意に対して謝意をこめた挨拶である。「冷え初むる」が「菊」にもかかり、「腰」にもかかるのでその複雑さが句を曇らせている。しかし、老境の感慨がこめられているので、何かしみじみしたものを誘う句である。

 「腰の綿」は腰綿のこと。腰にまとい冷えを防ぐ綿。

 『荒小田』に秋の部に収めるので、季語は「菊」。「菊の綿」もしくは「菊の着綿(きせわた)」を心に置いた用い方となっている。「菊の着綿」は、菊の花に綿をおおい被せたもの。重陽の節句(九月九日)の行事で、前夜、菊の花に綿をおおって、その露や香を移しとり、翌朝その綿で体を拭うと長寿を保つという。
 なお、「初霜」は冬。「冷ゆる」も秋。

    「初霜がおり、菊も冷えはじめてきた。自分の腰も冷えはじめるころに
     なったのだ。菊の着綿をする頃だが、自分もこの腰綿を巻いて、冷えを
     ふせごうよ」


      晩菊や家うち深く日の入りて     季 己

『去来抄』7 続・春風に

2011年11月03日 20時13分13秒 | Weblog
        春風にこかすな雛のかごの衆

 ――この句、『去来抄』には作者名がない。しかし、『猿蓑』に荻子(てきし)の句として収められているので、それと知れる。荻子は、伊賀上野の蕉門で、伊賀上野の藩士。

 荻子のこの句、「雛の使」を詠んだもの、というのが定説のようである。
 三月の節句に、節句のお礼として、雛人形や雛の道具を小さな駕籠に乗せ、草餅・甘酒などを添えて親戚などへ配った。その使いの者を「雛の使」といった。
 すると一句は、「雛を運ぶ男衆よ、春風に浮かれて、駕籠の中の雛をひっくり返しなさんなよ」といった意になろう。何の計らいもなく、ポッと口をついて出たような、さらりとした句でユーモラスな感じもある。この点を芭蕉は、「あだなるところ」と評したのである。

 「あだ」は、これまで、女の美しくたおやかなさま、色っぽくなまめかしいさま、洗練されて粋なさまの意、あるいは、実のないこと、はかないこと、かりそめの意で解釈されてきた。
 それを、尾形仂氏が、当時の用例を詳しく検討し、「あだ」を「小児のごとき無心な態度から生まれた無邪気でユーモラスな詩趣」と結論づけた。
 あどけない、子どもっぽい、という意をあらわす語に「あだなし」があり、芭蕉先生の言う「あだ」は、こちらの意味であったようだ。
 したがって、「あだなるところ」は、あどけない、いやみのない作風、小児のような心で詠まれた句の味、ということになろう。

 この時期、芭蕉は、技巧の巧みな句、工夫をこらした句など、いわゆる念の入りすぎた句よりも、そうしたものを削ぎ落とした、計らいのない句を目指していた。これはやがて「かるみ」といわれる境地につづいてゆくものだが、そこへの一過程として「あだなるところ」を推賞したものと思う。

 「俳諧は三尺の童にさせよ、初心の句こそたのもしけれ」という芭蕉の言葉がある。知恵のついたが堕落の始まり、というのは、俳諧の世界だけではないが、何年も句を作っているとそれなりに身につけた技巧や知恵があって、かえって計らいが入り、とかく無心でものに向かうことを怠りがちである。いうなれば、形はととのっても魂が入らない。それでは人を感動させる力が生まれない。
 芭蕉自らが志向しつつあったものの中の一つを、伊賀の俳人たちが確実にマスターしてくれているのは、隠しようもなく嬉しかったのである。


      咲き盛る菊 神仏に手を合せ     季 己

『去来抄』7 春風に

2011年11月02日 22時22分01秒 | Weblog
        春風にこかすな雛のかごの衆

 先師がこの句を評して、
      「伊賀の俳人たちが、作為のない無邪気な句を詠んでいるのは、たいそう
       心をひかれるね」
といわれた。
 丈草が言うには、
      「伊賀の俳人たちの俳風が、作為がなく無邪気なのを、先師はまるで知らぬ
       顔をされているが、じつはそれは、先師がそのように指導をなさったから
       なのだ」
と。


      我楽多のなかのあれこれ秋日和     季 己

かじか

2011年11月01日 20時23分24秒 | Weblog
          山中十景 高瀬漁火
        いさり火にかじかや浪の下むせび     芭 蕉

 漁火(いさりび)、それも「高瀬の漁火」という十景の一題として、鰍(かじか)が鳴くという季題を契機として発想している。『東西夜話』の前書によれば、実景に接しての吟ではなく、桃妖亭での題詠のように思われる。元禄二年、山中温泉滞留中の作。

 「かじか」は鰍。イシブシ・ゴリなどとも呼ばれる魚。ハゼに似て痩せ形で、暗灰色に黒い縞がある。河鹿と混同されて、鳴くものとされ、『本朝食鑑』に「加志加(かじか)魚いまだ正字を見ず。あるいは歌鹿に作りて、魚声歌のごとく、鹿の遠く鳴くがごとし……」とあり、『をだまき綱目』に、季語として「かじか鳴く」が見える。この句も「かじか鳴く」を意識しているふしが感じられる。
 「下むせび」は、心中ひそかにむせび泣く意で、定家の『拾遺愚草』その他の歌に用例が見え、歌語的な語感を持つが、「浪の」との続き方が掛詞的であるところや、「いさり火に」と「むせび」がつきすぎている点など、詩語として純化されきっているとはいえないようである。

 季語は「かじか」で秋。

    「漁火がうつる浪の下でかなしげに鳴いているのは、伝え聞く鰍のむせぶ
     声であろうか」


      きりぎりすまだ鳴いてゐる帰り道     季 己