壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』9 続・すずしさの

2011年11月14日 23時18分17秒 | Weblog
        すずしさの野山にみつる念仏哉     去 来

 ――「M通信」の編集長Mさんは、その時の気分を大切にしているためか、いったん書いたら改めない。と言うよりも、本人は読み返していないようだ。書いたら書きっぱなし、誤字・脱字があろうとおかまいなし。実におおらかな人物である。

 俳人の場合でも、己の意にかなうまで何度も推敲を重ねる人と、その場の雰囲気を大切にするため、いったんつくったらあまり改めない、という人がある。
 芭蕉先生は、自分の句もそうであるが、門弟の句の添削も一度にとどまらず、何度も練り直したようである。

 毎年六月二十三日、京都・真如堂で出開帳がおこなわれた。元禄七年六月二十三日の、善光寺ご本尊阿弥陀如来の真如堂への出開帳の際、去来は次のような句をつくった。
        ひいやりと野山にみつる念仏哉     去 来
 すると芭蕉先生、
 「こういうときの釈教句は、全体をおだやかにつくるものだ。この上五の五文字は適切ではない」と言って、
        風薫る野山にみつる念仏哉
と、直してくれた。
 「ひいやりと」は、その日の去来の実感だったであろうが、あまりに人間的、体感的であり、寺が再興される気分の盛り上がりをかえって弱めている。
 そこで、「風薫る」という爽やかな語にかえたのであろう。しかし、「風薫る」では「野山」だけにかかって主格の「念仏(ねぶつ)」に響かない。したがって「おだやかさ」は、表現し得ていない。
 というようなことで、意に満たなかった芭蕉先生はさらに、『続猿蓑』の撰をするとき、もう一度添削して、
        すずしさの野山にみつる念仏哉
と改めて集に入れてくれた、という。

 ところが、『続猿蓑』には、巻之下の「釈教之部」に、
          洛東の真如堂にして、善光寺如来開帳の時、
        涼しくも野山にみつる念仏哉     去 来 
と見える。
 そうすると、この句には、

        ひいやりと野山にみつる念仏哉
               ↓
        風薫る野山にみつる念仏哉
               ↓
        すずしさの野山にみつる念仏哉
               ↓
        涼しくも野山にみつる念仏哉

の四通りの上五があることになる。
 俳句は短詩型のため、一部分の変更が、一句を生かしも殺しもする。一語といえども、影響は全体に及ぶ。添削するなら、そうしたところまで推し量って改めなければならない。どんな語句や表現がよいかは、他の部分との響き合いの中できまるのだ。

 さて、「すずしさの」が「涼しくも」となると、印象はどう違ってくるだろうか。
 「すずしさの」は、「みつる」の主語であるとともに、「念仏」の形容となる。つまり、執り行われている法要の、、ありがたい、さわやかな情緒が野山にひろがってゆくような感じになり、「涼しさ」は季節感のみならず、念仏の声の涼しさにも通って、新しいものが生まれるのを喜ぶ法要の気分とがみごとに調和する。
 「涼しくも」は、「念仏(ねぶつ)」のみを形容することになり、「野山」は「念仏」によって「涼しさ」を獲得し得ているとの構造の一句となる。
 釈教句としては、「念仏」の「おだやか」さは、この句形のほうが、的確に表現し得ており、焦点が定まっている。
 ただ、涼しさのひろがる感じがより強い「すずしさの」も捨てがたい。 


      豚汁と七味のかをり酉の市     季 己