大伴家持
天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
みちのく山に 黄金(くがね)花咲く (『万葉集』巻十八)
大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首並びに短歌」をつくった。長歌は百七句ほどの長編で、結構も詞(ことば)も骨折ったものであり、それに反歌が三つあって、これは第三のものである。
一首の意は、天皇(聖武)の御代が永遠に栄える瑞祥として、このたび東(あずま)の陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。
この短歌は余り細かいことに気を配らずに一息に云い、言葉の技法もまたおとなしく素直だから、荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれていると思う。
結句に、「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのも、この場合、非常に適切である。
これらの力作をなすにあたり、家持は知らず知らず、人麿や赤人など先輩の作を学んでいたに違いない。
幸せの黄色も須川りんごかな 季 己
天皇(すめろぎ)の 御代栄えむと 東なる
みちのく山に 黄金(くがね)花咲く (『万葉集』巻十八)
大伴家持は、天平感宝元年五月十二日、越中国守の館で、「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首並びに短歌」をつくった。長歌は百七句ほどの長編で、結構も詞(ことば)も骨折ったものであり、それに反歌が三つあって、これは第三のものである。
一首の意は、天皇(聖武)の御代が永遠に栄える瑞祥として、このたび東(あずま)の陸奥の山から黄金が出た、というので、それを金の花が咲いたと云った。
この短歌は余り細かいことに気を配らずに一息に云い、言葉の技法もまたおとなしく素直だから、荘重に響くのであって、賀歌としてすぐれていると思う。
結句に、「かも」とか「けり」とか「やも」とかが無く、ただ「咲く」と止めたのも、この場合、非常に適切である。
これらの力作をなすにあたり、家持は知らず知らず、人麿や赤人など先輩の作を学んでいたに違いない。
幸せの黄色も須川りんごかな 季 己