壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

妹が手まかむ

2011年11月11日 21時05分42秒 | Weblog
                 作者不詳
        さを鹿の 入野のすすき 初尾花
          いづれの時か 妹が手まかむ 
(『万葉集』巻十)

 この歌は、「いづれの時か妹が手まかむ」だけが意味内容である。「いつになったら、恋しいあの娘の手をまいて、一緒に寝ることができるだろうか」という感慨をもらしたものだ。
 上の句は序詞で、鹿の入ってゆく入野(いりの)、入野は地名で、京都・大原野に入野神社がある。その入野の薄(すすき)と初尾花(はつおばな)と、いずれであろうかと云って、「いづれの時か」とつづけたので、ずいぶん煩(うるさ)いほどな技巧をこらしている。こういう凝った技巧は、今となっては余り感心しないものだが、当時の人は骨折ったし、読む方でも満足した。
 しかし、この歌で心ひかれたのは、そういう序詞でなく、「いづれの時か妹が手まかむ」の句にあったのである。
 聖徳太子の歌に、
        家にあらば 妹が手まかむ 草枕
          旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ
があった。


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