壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『去来抄』10 続・面梶よ

2011年11月22日 22時32分09秒 | Weblog
        面梶よ明石のとまり時鳥     野 水

 ――解説に入る前に、お断りというか、注意しておきたいことがある。「凩の荷けい」として一躍有名になった〈荷けい〉が自ら編んだ『曠野後集(あらのこうしゅう)』に、一句を
        面櫂(おもかじ)やあかしの泊り郭公(ほととぎす)
の句形で収録している。『去来抄』で作者を〈野水〉としているのは、去来の記憶違いであろう。
 ただ、このエピソードの眼目は、着眼点の模倣、故意でない場合は類似、つまり等類ということに関してである。今日で言う類句・類想である。したがって、そのことを中心に解説をする。

 ――「面梶」は船のへさきを右へ向ける梶の取り方なので、一句の意は、
    「船が明石の港へ入ろうとするとき、時鳥が鳴いた。船頭よ、時鳥の
     鳴いたほうへ面梶をとってくれ」
ということであろう。
 この句を『猿蓑』に入れるか、入れないかが問題になり、去来は強硬に反対した。その理由は、先師・芭蕉が『おくのほそ道』の旅で詠んだ、
        野を横に馬引きむけよほととぎす
という句とそっくりであるから、というのだ。
 類句・類想ということは、今でもよく問題になる。

        野を横に馬引きむけよほととぎす
        面梶よ明石のとまり時鳥
 さて、この二句を比べて、あなたは類句と断定しますか?
 どちらも、ほととぎすが鋭く鳴いてさっと渡る一瞬をとらえている。芭蕉の句は、馬に乗っていて馬子に呼びかけたもの。「面梶よ」は、船頭に、ほととぎすの行った方に舵を取ってくれよ、と呼びかけたもの。
 どちらも少々、格好をつけたところが感じられるが、このような表現は、和歌以来、ほととぎすを賞美するときの、伝統的な手法なのである。
 たしかに、馬と船との違いはあっても、ほととぎすの飛んでいった方へ向けよ、と間髪を入れず命じる、という骨組みは同じである。いわゆる同工異曲。去来はそこを問題にしたのだ。
 芭蕉は、パターンは似ているが、ほととぎすを聞く場面が違うし、明石や船が出てきて別の風情がうまれている点がよい、という考えだったようだ。

 もし去来のような観点から類句を云々したら、おそらく、一瞬に鳴いて渡るというほととぎすの本意をとらえて詠んだ句のほとんどは、類句ということになりかねない。先行の句が多くなればなるほど、こうした問題は避けられない。
 『猿蓑』の撰では、類句を除くということを必要以上に厳密に行なっていたように感じられる。『猿蓑』に可能なかぎり良句を収録したいというだけでなく、重複や単調をさけ、一集としての体裁を整える、という全体性への配慮もあったと思う。


     竹に干す紺の手ぬぐひ一葉忌     季 己