かりそめに早百合生ヶたり谷の房 蕪 村
「かりそめに さゆりいけたり たにのぼう」と読む。
「かりそめ」は、「一時的な間に合わせ」「おろそかで軽々しい」の意である。
「かりそめにも」は、「ほんの少しでも」「けっして」の意である。
だが、「かりそめに」は、手元の辞書には立項されていない。
おそらく蕪村は、「なほざり」に意味はちかく、「何に役立てるともなく」「誰に見せるともなく」の気持で用いたものと思う。
同時に、禅寺ででもあるらしく、僧の手で、「無造作に」「手軽く」百合が生けられたことをも表している。
わずかの人家からさえ、遠く隔たった谷間にただ一軒ある寺なのであろう。「谷間の百合」という語があるが、一句全体がいかにも清々(すがすが)しい気分である。
「谷の房」は、谷間の僧坊。
「早百合」は、「小百合」とも書き、「ゆり」のこと。「さ」は接頭語。ただし、「小百合」は「かわいらしい」の意を、「早百合」は「他に先がけて咲く」の意を含んでいる場合が多い。夏の季語である。
「谷底に一軒の禅寺がある。あたりには、よそに先がけて百合の花が
たくさん咲いた。めったに訪ねてくる人もないのだが、寺の一室には、
その百合を手折って無造作に生けてある」
山百合の言はぬが花とぱっと咲く 季 己
「かりそめに さゆりいけたり たにのぼう」と読む。
「かりそめ」は、「一時的な間に合わせ」「おろそかで軽々しい」の意である。
「かりそめにも」は、「ほんの少しでも」「けっして」の意である。
だが、「かりそめに」は、手元の辞書には立項されていない。
おそらく蕪村は、「なほざり」に意味はちかく、「何に役立てるともなく」「誰に見せるともなく」の気持で用いたものと思う。
同時に、禅寺ででもあるらしく、僧の手で、「無造作に」「手軽く」百合が生けられたことをも表している。
わずかの人家からさえ、遠く隔たった谷間にただ一軒ある寺なのであろう。「谷間の百合」という語があるが、一句全体がいかにも清々(すがすが)しい気分である。
「谷の房」は、谷間の僧坊。
「早百合」は、「小百合」とも書き、「ゆり」のこと。「さ」は接頭語。ただし、「小百合」は「かわいらしい」の意を、「早百合」は「他に先がけて咲く」の意を含んでいる場合が多い。夏の季語である。
「谷底に一軒の禅寺がある。あたりには、よそに先がけて百合の花が
たくさん咲いた。めったに訪ねてくる人もないのだが、寺の一室には、
その百合を手折って無造作に生けてある」
山百合の言はぬが花とぱっと咲く 季 己