壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (119) 人間完成の道①

2011年07月12日 07時23分21秒 | Weblog
        ――先人は言っている。
          「おおよそ、十の徳を備えた指導者こそ、まことの明聖という
         べきである」と。
          十徳とは、
            堪能  稽古  修行  求道心  手蹟  年老
            閑人  明匠に逢う  利根  身の程
          のことである。
          まことに、これらをわきまえた指導者を見つけることは、非常
         に困難である。それゆえ、賢人とか聖人は、五百年か千年に
         一度しか出現しない、といわれるのだ。
          大国(中国)でも我が国でも、諸道において、聖人賢人に生ま
         れ逢うことだけは難しい、といわれる。

          昔の書物にも七徳をあげている。
            賢徳  文徳  武徳  慈徳  業徳  応徳  聖徳
          また言う。
            仁  義  礼  智  信  (がい)  諦(てい)

          仏教にも、仏法の宝、仏法の賊として七つをあげている。それ
         なら歌道にも、必ずそうした宝があるはずである。
          仏法の宝、
           信  戒  悲  懺(くい)  多聞  知恵  捨離
          歌道の宝、
           数寄  修行  執心  道心  閑人  稽古  利根
          歌道の賊、
           無数寄  睡眠  談話  大酒  早口  独り合点
           有財


          この二冊のつまらぬ文章は、まことにとりとめもないことなど
         である。真実の歌道は、太虚に等しく、一人ひとりの人間完成
         の上のことである。もとより、悟りをひらくことは、他から強制す
         るものではない、といわれる。

          迷っている時に判断した是非は、ことごとく非であり、
          悟りをひらく前に判断した有無は、ことごとく無である。
          究極の真理である諸法実相以外は、ことごとく迷妄の魔障であ
         る、といわれる。
          諸々の苦しみが生まれる原因は、貪欲が根底にあるからである。
         直ちに破り捨て給うべきである。

          寛正四年五月上旬、紀州田井の庄の八王子社に参籠している間、
         その近辺の田舎者たちが、連歌を稽古する用心に、指南書を懇望
         するので、無視するわけにもゆかず、勤行の暇にあわただしく心に
         浮かぶまま、愚案を筆にまかせて書き記したまでだ。まったくお粗末
         なことだ。一覧の後は、ぜひとも火にくべて燃やしていただきたい。
         決して他人には洩らさないで欲しい。
                                   釈 心敬 (花押)
                          (『ささめごと』歌道の徳と宝、跋文)


      牡丹の照る日くもる日 画家の妻     季 己

        ※ 牡丹(ぼうたん)