――仏法を修行して、まことの仏の教えを探り求めたり、歌道を
一心に精進努力して、その奥義をきわめるにしても、どのよう
な形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌と決めて
よいのか、はっきりわからないのですが……。
――この世のすべての存在には、きまった姿や形というものはな
い。そう、すべては「空(くう)」なのじゃ。
ただ折々の時節により、あるいは、さまざまな縁の働きかけに
応じて、しみじみとした深い趣を現わし、真理を積極的に表すだ
けである。仏にしても和歌にしても、つまるところは、天地が森
羅万象を現わし、法身の如来が、思いのままに無限の形相に変化
するような、生起することが思いのままの縁起自在の境地である。
その境地が縁にしたがってさまざまな形相として現われる。これ
を等流身(とうるしん)の仏とも言っている。
その法身仏にしても等流身の仏にしても、きまった形相がある
わけではない。ただ一ヵ所にとどまることなく、行雲流水の境地、
すなわち縁起自在の境地に立つ作者だけが、真理を体現しつつ
変化しつづける存在を、正しく見通すことが出来るのである。
だから、古人が「いかなるがこれ仏」と問うたところ、僧は、
「庭前にある柏樹子(はくじゅし)」と答えた。そのわけを弟子に
尋ねると、「師は何もおっしゃらなかった。だからといって師を
誹謗なさらないでください」と言った。
森羅万象即法身 是故我礼一切塵
(宇宙に存在するあらゆるもの一切は、即ち、法身仏
そのものである。だから自分は、塵泥に等しいもの
でも、仏として拝礼する)
沙羅の花 若きカップル足組んで 季 己
一心に精進努力して、その奥義をきわめるにしても、どのよう
な形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌と決めて
よいのか、はっきりわからないのですが……。
――この世のすべての存在には、きまった姿や形というものはな
い。そう、すべては「空(くう)」なのじゃ。
ただ折々の時節により、あるいは、さまざまな縁の働きかけに
応じて、しみじみとした深い趣を現わし、真理を積極的に表すだ
けである。仏にしても和歌にしても、つまるところは、天地が森
羅万象を現わし、法身の如来が、思いのままに無限の形相に変化
するような、生起することが思いのままの縁起自在の境地である。
その境地が縁にしたがってさまざまな形相として現われる。これ
を等流身(とうるしん)の仏とも言っている。
その法身仏にしても等流身の仏にしても、きまった形相がある
わけではない。ただ一ヵ所にとどまることなく、行雲流水の境地、
すなわち縁起自在の境地に立つ作者だけが、真理を体現しつつ
変化しつづける存在を、正しく見通すことが出来るのである。
だから、古人が「いかなるがこれ仏」と問うたところ、僧は、
「庭前にある柏樹子(はくじゅし)」と答えた。そのわけを弟子に
尋ねると、「師は何もおっしゃらなかった。だからといって師を
誹謗なさらないでください」と言った。
森羅万象即法身 是故我礼一切塵
(宇宙に存在するあらゆるもの一切は、即ち、法身仏
そのものである。だから自分は、塵泥に等しいもの
でも、仏として拝礼する)
沙羅の花 若きカップル足組んで 季 己