壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (115) 至高の和歌・連歌①

2011年07月04日 10時17分27秒 | Weblog
        ――仏法を修行して、まことの仏の教えを探り求めたり、歌道を
         一心に精進努力して、その奥義をきわめるにしても、どのよう
         な形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌と決めて
         よいのか、はっきりわからないのですが……。

        ――この世のすべての存在には、きまった姿や形というものはな
         い。そう、すべては「空(くう)」なのじゃ。
          ただ折々の時節により、あるいは、さまざまな縁の働きかけに
         応じて、しみじみとした深い趣を現わし、真理を積極的に表すだ
         けである。仏にしても和歌にしても、つまるところは、天地が森
         羅万象を現わし、法身の如来が、思いのままに無限の形相に変化
         するような、生起することが思いのままの縁起自在の境地である。
         その境地が縁にしたがってさまざまな形相として現われる。これ
         を等流身(とうるしん)の仏とも言っている。
          その法身仏にしても等流身の仏にしても、きまった形相がある
         わけではない。ただ一ヵ所にとどまることなく、行雲流水の境地、
         すなわち縁起自在の境地に立つ作者だけが、真理を体現しつつ
         変化しつづける存在を、正しく見通すことが出来るのである。
          だから、古人が「いかなるがこれ仏」と問うたところ、僧は、
         「庭前にある柏樹子(はくじゅし)」と答えた。そのわけを弟子に
         尋ねると、「師は何もおっしゃらなかった。だからといって師を
         誹謗なさらないでください」と言った。
           森羅万象即法身  是故我礼一切塵
           (宇宙に存在するあらゆるもの一切は、即ち、法身仏
            そのものである。だから自分は、塵泥に等しいもの
            でも、仏として拝礼する)


      沙羅の花 若きカップル足組んで     季 己