わかたけや橋本の遊女ありやなし 蕪 村
「橋本」は、淀川の沿岸、山城男山の麓にある宿場である。昔、対岸の山崎へ通じる山崎橋がここにあったので橋本という。昔から遊郭があって、それゆえに名高かった。
「ありやなし」は、『伊勢物語』の業平が隅田川で詠んだ
名にし負はゞ いざこと問はん 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
を踏んでいる。
「ありやなし」の語は、ただ情をやるための雅語として利用したのであって、業平のように特定の懐かしい人を念頭においているのではない。今年竹が、古竹を圧倒するばかりに生い栄えているのを見るにつけ、人間界の栄枯盛衰を、ほのかに思いやっているのである。
事実としては、橋本の遊郭は衰微しつつも、蕪村の時代には残存していた。当時は淀川の三十石舟によって、伏見から浪華へ下るのが普通であった。したがって、この句は舟中から沿岸を望んでの述懐であろう。
季語は「わかたけ」で夏。
「このあたりは橋本の宿場であると聞いている。だが、打ち眺めたところ、
藪が到る処に茂っているばかりで、ひどくさびれている。今年の若竹が
瑞々しく伸びて競い立っているのを見るにつけて、昔あれほどまでの繁
華さで、《橋本の遊女》の名に唱われたものであるが、今日ではせめて
名残くらいはとどめているのかしらと、懐古の気持に誘われる」
健診の予約破棄する医者いらず 季 己
「橋本」は、淀川の沿岸、山城男山の麓にある宿場である。昔、対岸の山崎へ通じる山崎橋がここにあったので橋本という。昔から遊郭があって、それゆえに名高かった。
「ありやなし」は、『伊勢物語』の業平が隅田川で詠んだ
名にし負はゞ いざこと問はん 都鳥
わが思ふ人は ありやなしやと
を踏んでいる。
「ありやなし」の語は、ただ情をやるための雅語として利用したのであって、業平のように特定の懐かしい人を念頭においているのではない。今年竹が、古竹を圧倒するばかりに生い栄えているのを見るにつけ、人間界の栄枯盛衰を、ほのかに思いやっているのである。
事実としては、橋本の遊郭は衰微しつつも、蕪村の時代には残存していた。当時は淀川の三十石舟によって、伏見から浪華へ下るのが普通であった。したがって、この句は舟中から沿岸を望んでの述懐であろう。
季語は「わかたけ」で夏。
「このあたりは橋本の宿場であると聞いている。だが、打ち眺めたところ、
藪が到る処に茂っているばかりで、ひどくさびれている。今年の若竹が
瑞々しく伸びて競い立っているのを見るにつけて、昔あれほどまでの繁
華さで、《橋本の遊女》の名に唱われたものであるが、今日ではせめて
名残くらいはとどめているのかしらと、懐古の気持に誘われる」
健診の予約破棄する医者いらず 季 己