五月六日大来堂興行
堂守の小草ながめつ夏の月 蕪 村
この句の初案かと思われるものに、
殿守のそこらを行くや夏の月
がある。
明るいけれども余情がなく、つつぬけにひらけているさまの夏の月の特性は、これらの主人公のくつろぎつつも孤独なやり場のない有様には、ふさわしい配合物であろう。
「小草(おぐさ)」というのは、猫じゃらし・カヤツリグサの類であって、それが丈の高くない穂を月に白く光らしているのである。
芭蕉にも、
昼顔に米搗きすゞむあはれなり
の句があって、似通った情景を扱っている。しかし、蕪村は芭蕉にくらべ、より傍観的な態度を持している。
季語は「夏の月」で夏。
「それほど大きくもない御堂の番人が、昼間はそれでも何人かの参詣人が
あって気が紛れていたが、夜に入るとともに、することは一切なく、話相手
もなくて、退屈なあまりに涼みがてら端居をしている。堂のあたりには、踏
み固められた庭の一隅にわずかに伸び出ている草があって、夏の月の光を
受けて輝いている。それを、堂守は所在なげに眺めるともなく眺めている」
まだ書けるまだまだ書けと夏の月 季 己
堂守の小草ながめつ夏の月 蕪 村
この句の初案かと思われるものに、
殿守のそこらを行くや夏の月
がある。
明るいけれども余情がなく、つつぬけにひらけているさまの夏の月の特性は、これらの主人公のくつろぎつつも孤独なやり場のない有様には、ふさわしい配合物であろう。
「小草(おぐさ)」というのは、猫じゃらし・カヤツリグサの類であって、それが丈の高くない穂を月に白く光らしているのである。
芭蕉にも、
昼顔に米搗きすゞむあはれなり
の句があって、似通った情景を扱っている。しかし、蕪村は芭蕉にくらべ、より傍観的な態度を持している。
季語は「夏の月」で夏。
「それほど大きくもない御堂の番人が、昼間はそれでも何人かの参詣人が
あって気が紛れていたが、夜に入るとともに、することは一切なく、話相手
もなくて、退屈なあまりに涼みがてら端居をしている。堂のあたりには、踏
み固められた庭の一隅にわずかに伸び出ている草があって、夏の月の光を
受けて輝いている。それを、堂守は所在なげに眺めるともなく眺めている」
まだ書けるまだまだ書けと夏の月 季 己