壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (117) 至高の和歌・連歌③

2011年07月06日 00時00分20秒 | Weblog
        ――仏教でも、智門の理想は、菩提を望み求めるのでできるだけ
         高く、悲門の目標は、衆生を救おうと志すので低いのが妙理で
         ある。
          歌道においても、ただ単に歌を作るだけの、悲門に属する作
         家がいる。念仏のみにすがる、念仏宗徒のようなものであろう。
         無知愚鈍の輩が、学問修業の苦行をせず、ただひたすら南無阿
         弥陀仏と唱えて信仰する類である。
          智門に相応する歌人は、いわば天台止観などを実践する修行
         者に当たるのであろう。悲門の低級で愚鈍な教えといえども、
         仏法の真実である点では、智門と何ら変わりはない。

          たとえて言えば、寒い夜に、綾錦のりっぱな着物を着ても、
         また、粗末な麻の綴れや紙の衾(ふすま)を重ねても、寝入っ
         た後はどちらも同じである。かたよらず、こだわらず、とらわ
         れない、人間本来が持っている純粋な心は、それ自身清浄であ
         り、一切空無の涅槃真如の境地に等しい。
             西方浄土無為楽  畢竟逍遥離有無
           (西方の極楽浄土には、寂静無為の楽しみがあり)
           (そこに心を遊ばせ、悩みや迷いから解き放たれる)

          さまざまの、対象をめぐる分別や対象にとらわれた誤った想
         念が、心に波風を立ち騒がせるのは、第八識の世界までのこと
         である。
          十識の真心に到達してこそ、善悪の判断に惑わされない不動
         の心が得られるのだ。
          幻化(げんけ)、つまり、この世の事象は幻人の幻や仏の通
         力による変化(へんげ)であると見抜く叡智を起こし、幻妄の
         事象を排除して後、はじめて対象(境)も主体(智)もともに
         幻妄でないことが明瞭になるという。
          平等無差別の仏の慈悲心で、空の境地に向かって働きかける
         のみ。夢幻のこの世の現実の是非は、ことごとく非である。開
         悟寸前の者の有無の判断は、つまるところ無である、と。
             有為報仏夢中権果  無作三身覚前実仏
         (さまざまな因縁により生じた報身仏は、夢幻に生じた仮初めの因)
         (不生不滅の存在である三身仏は、開悟直前の実仏)
                             (『ささめごと』至極の歌連歌)


      はがき絵の喰らひつきたき甜瓜     季 己