壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (116) 至高の和歌・連歌②

2011年07月05日 00時02分57秒 | Weblog
 ――「どのような形をまことの仏、どういう風体を至極の和歌・連歌というのか」という問に対し、心敬は、「この世のすべての存在には、きまった姿や形はない」と答えております。般若心経で有名な「色即是空 空即是色」の、あの「空」であるというのです。
 「空」は、“からっぽ”ということではありません。私たちの身の回りの一切のものが、縁という細い細い糸をたどり、偶然を重ねて、われわれの眼の前に現れる、ということです。
 すべてのものは実体を持たず「空」ですけれども、それは縁をつむぐ「空」でもあるのです。

 一口に“子ども”といっても、これが“子ども”というきまった姿や形はありません。縁つまりもろもろの条件により、みんな違うのです。
 「見えないけれどもあるんだよ」「みんな違ってみんないい」、耳にたこができるほど聞かされたこれらの言葉も、「空」の考えが根底にはあるのです。
 人を喜ばすものも、悩ませるものも、人を取り巻く一切のものは、「空」なのです。

 奈良・薬師寺の前管長、故高田好胤師は、
    「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、
     広く、ひろく、もっと広く、これが般若心経‘空’の心なり」
 と、説いておられました。
 かたよったり、こだわったり、とらわれたりしているうちは、「まことの仏、至極の和歌・連歌」は、わからない、と心敬は言っているのです。

 行く雲のごとく、何ものにもとらわれずに無心に、また、流れる水のように、きまった形にこだわることなき自由を体得することを「行雲流水」といいます。
 水は行く手を阻む大きな岩があっても、なんなく流れていきます。こだわりなく、とらわれることなく海に向かって……。
 水にきまった形はありません。丸いものに入れられれば丸く収まり、四角いものに入れられれば四角におさまり、その場、その場に充実して生きます。
 大空に浮かぶ雲も、きまった形などありません。形を変え、姿を変え、一ヵ所にとどまることなく、自由にどこまでも流れて行きます。ときには峰に止まって山の風光を添え、添えたことも忘れていずこかに去って行きます。
 このように、無心無相に、そのときそのところに生き、そのときそのところを生かしていく生き方が「行雲流水」なのです。
 「行雲流水」は、また無常の相(すがた)でもあります。しかし、自然のたたずまいだけに無常を感じるだけでは不十分です。自分自身の無常を観じるよすがとして、「行雲流水」を凝視しなければなりません。
 どこへでも縁に流れて、流れつづければよいのです。そして、その場、その場の風光を自由に味わえばよいのです。心の眼さえ開けるなら、花も水も雲もすべて真如(一切存在の真実のすがた)を語っているのがわかるはずです。その真如をとらえるのが作家なのです。
 心敬は、「行雲流水」の境地に立つ作者だけが、物事を正しく見通すことが出来る、というのです。

 「庭前の柏樹子」は、庭先にある柏の木、という意味ですが、有名な禅問答の一つです。
 「達磨大師は、どうして印度から中国へやって来たんですか」と、一人の僧が尋ねました。
 すると、趙州(じょうしゅう)和尚は、「庭前の柏樹子」と、答えたのです。きっと寺の境内にある柏樹を思い起こしたのでしょう。
 普通に考えたら、答えになっていません。では、趙州和尚の意図はどこにあるのでしょうか。
 「一つのことにこだわりすぎると、自分を見失うぞ。広く全体を見よ」
 「日々の生活における知覚そのものが、《仏法の究極》であることに気づかせる」
 などなどが考えられます。

 けれども、心敬の意図は少し違うようです。
 「庭前の柏樹子」のすぐあとに、「森羅万象即法身 是故我礼一切塵」とありますので、
    「庭前の柏樹子も仏、お前さんも仏。この世に存在するものはすべてが仏。
     つまり、仏というきまった形はないのだ。すべては空なのだ」
 と言いたいのでしょう。


      蛍見や身のぬくもりをいとほしみ     季 己