汐煙きえて山より日は涼し 蕪 村
前に海をひかえ、後に山を負った、塩田地方の夕涼の景が、的確に描かれている。
古来、和歌などで、「汐焼く煙」が、弱々しい感傷の具にされつづけてきたことを思えば、蕪村の感覚の強靱さと、作者としての積極性が明らかとなるわけである。
「夕べ」という字を使わないで、句全体から「夕べ」であることを読み手に悟らせている。
「山より日は涼し」も、思い切った省略であるが、一句の中に据えてみるとき、少しの無理もない。事実、海辺地方では夕べとともに、海の方向へ山から風が吹き下ろしはじめるのである。
蕪村は、ものがある状態から他のある状態へ推移しようとする、その接触点に立つ情景をとらえるにすぐれている。この句も、炎暑から晩涼へ移ろうとする微妙なひとときの景を描いているのである。
従来あまり問題にされなかったことが不思議である。
季語は「涼し」で夏。
「一望の塩田は照り返し、いくつもの塩屋からは、汐を焼く煙がもこもこと
立ちつづけて、日中は暑熱灼くがごとしであった。しかし、夕べとなった
今は、塩屋の煙は途絶え、日さえ山に没しようとして、弱々しい紅い光
となり、そちらから吹き下ろしてくる夕風と一つになって、涼しくさえ感じ
られる」
握手する手を篆刻に薄暑光 季 己
前に海をひかえ、後に山を負った、塩田地方の夕涼の景が、的確に描かれている。
古来、和歌などで、「汐焼く煙」が、弱々しい感傷の具にされつづけてきたことを思えば、蕪村の感覚の強靱さと、作者としての積極性が明らかとなるわけである。
「夕べ」という字を使わないで、句全体から「夕べ」であることを読み手に悟らせている。
「山より日は涼し」も、思い切った省略であるが、一句の中に据えてみるとき、少しの無理もない。事実、海辺地方では夕べとともに、海の方向へ山から風が吹き下ろしはじめるのである。
蕪村は、ものがある状態から他のある状態へ推移しようとする、その接触点に立つ情景をとらえるにすぐれている。この句も、炎暑から晩涼へ移ろうとする微妙なひとときの景を描いているのである。
従来あまり問題にされなかったことが不思議である。
季語は「涼し」で夏。
「一望の塩田は照り返し、いくつもの塩屋からは、汐を焼く煙がもこもこと
立ちつづけて、日中は暑熱灼くがごとしであった。しかし、夕べとなった
今は、塩屋の煙は途絶え、日さえ山に没しようとして、弱々しい紅い光
となり、そちらから吹き下ろしてくる夕風と一つになって、涼しくさえ感じ
られる」
握手する手を篆刻に薄暑光 季 己