壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

いつくしま

2011年07月11日 00時01分29秒 | Weblog
             宮 島
        薫風やともしたてかねついつくしま     蕪 村

 前書の「宮島」は、完全に蛇足である。現代俳句では、わたしは前書を好まない。ただし、慶弔俳句は別である。
 個展会場などで、こちらが何も聞かないのに、絵の説明を得々とする作家がいる。作家が説明をしなければならない作品は、未完の作品だ。そんな作品は発表すべきではない。本物の作品は、こちらが凝視すればするほど、いろいろと語ってくれるものだ。
 これと同様、前書に頼らず、作品自体に語らせるのが俳句である。ましてや句中に「いつくしま」とあるのに、なぜ宮島などとわざわざ前書をつけたのか理解できない。

 「ともしたてかねつ」は、いっせいに点じられた千万の燈火が、ことごとく水に映じつつ激しく風に瞬く美観を誇張していったのである。
 蕪村が実際の厳島(いつくしま)を知っていたとしても、これは彼の詩の世界にあってさらに理想化された厳島の夜景なのである。

 季語は「薫風」で夏。「薫風」は、青葉などを吹き渡ってくる夏の風の薫るように爽快なのをいう。

    「厳島神社の殿塔は、夜に入ってからも、満々と薫風が吹き寄せ吹き抜いて
     いく。海水に脚を沈めて建てられている廻廊の軒には、無数の鉄の燈籠が
     吊り並べられている。それにいっせいに灯を入れようとするのに、炎は片端
     から風にあおられて打ち消され、灯ともすことはまったく断念しなければなら
     ないかと思われるほどである」


      炎昼の電信柱天をつく     季 己