壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

かりそめに

2011年07月16日 00時00分06秒 | Weblog
        かりそめに早百合生ヶたり谷の房     蕪 村

 「かりそめに さゆりいけたり たにのぼう」と読む。

 「かりそめ」は、「一時的な間に合わせ」「おろそかで軽々しい」の意である。
 「かりそめにも」は、「ほんの少しでも」「けっして」の意である。
 だが、「かりそめに」は、手元の辞書には立項されていない。
 おそらく蕪村は、「なほざり」に意味はちかく、「何に役立てるともなく」「誰に見せるともなく」の気持で用いたものと思う。
 同時に、禅寺ででもあるらしく、僧の手で、「無造作に」「手軽く」百合が生けられたことをも表している。
 わずかの人家からさえ、遠く隔たった谷間にただ一軒ある寺なのであろう。「谷間の百合」という語があるが、一句全体がいかにも清々(すがすが)しい気分である。

 「谷の房」は、谷間の僧坊。
 「早百合」は、「小百合」とも書き、「ゆり」のこと。「さ」は接頭語。ただし、「小百合」は「かわいらしい」の意を、「早百合」は「他に先がけて咲く」の意を含んでいる場合が多い。夏の季語である。

    「谷底に一軒の禅寺がある。あたりには、よそに先がけて百合の花が
     たくさん咲いた。めったに訪ねてくる人もないのだが、寺の一室には、
     その百合を手折って無造作に生けてある」


      山百合の言はぬが花とぱっと咲く     季 己