壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

雪にやならん

2009年12月16日 23時38分56秒 | Weblog
          鳴海、出羽守氏雲宅にて
        面白し雪にやならん冬の雨     芭 蕉

 挨拶の句である。「面白し」は、冬の雨が雪に変わろうとする気配を感じとって、雪を待つ心が思わず、口をついて打ち出されたものであろう。
 「雪にやならん冬の雨」という句の拍子には、雪を待つ心のたかぶりが、おのずからあらわれていて楽しい気分になっている。
 雪を待つその心の拍子には、何か童心に似たものさえ感じられるようである。

 「氏雲」は、本名 岡島佐助、俳号 自笑。刀鍛冶。
 季語は「冬の雨」

    「この宅に、俳諧の友と会していると、冬の雨が降るうち、しだいに寒さが
     増してきた。この調子だと雪に変わるであろう。待つ間、まことに面白い
     趣であるなあ」


      寒けれどにぎりしめたき御所人形     季 己

年の市

2009年12月15日 20時10分21秒 | Weblog
        年の市線香買ひに出でばやな     芭 蕉

 とりようによっては嫌みな隠者趣味にも見えるところがある。その点をよく批判される句である。
 しかし、そのようなことさらめいた脱俗のひけらかしとみないで、そういう生活での軽い即興ととりたい。ことに線香が、当時の江戸人の眼に触れてから、そう長い年月を経ていないものとすると、線香の語感が、現代の人の受け取るそれとはかなり違うということも考えなくてはならない。
 隠者趣味として芭蕉を非難するものの中には、実は、批難する側の心中にあらかじめ用意されていた隠者趣味の型に当てはめてみて、それで結論を急ぐところがあるようだ。
 貞享三年(1686)歳暮の作といわれる。

 「年の市」は、羽子板・注連飾り・若水桶その他食べ物類など、正月に用いる品を売るためにたつ市。東京では十二月十五日から、浅草の浅草寺境内裏で開かれるガサ市(一般客には売らない業者向けの卸市)や、深川八幡などのものが有名。
 「線香」は、特別に年の市で商うものではないが、当時、長崎に伝来して間のないころであったから珍しくもあり、また文具的なものとして扱われていたようでもある。
 「出でばやな」の「ばや」は、自ら願う意をあらわす語であり、「な」は詠嘆をあらわし、出たいな、というほどの意。
 季語は「年の市」で冬。年の市というもののあわただしさが前提となって、そこから、世人と違って年の暮といってもなすこともない自分が呼びだされている。

    「年の市が開かれて、世人は正月のいとなみに忙しい。自分も何とはなしに
     心ひかれるが、この生活では別に正月の支度といってなにもない。近ごろ
     世に行なわれているという線香でも買いに出ようかな」


      ガサ市の符丁尻目に個展見に     季 己  

煤に染まらぬ

2009年12月14日 22時50分04秒 | Weblog
        これや世の煤に染まらぬ古合子     芭 蕉

 『俳諧勧進牒』(元禄四年刊・路通編)に、「筑紫のかたにまかりしころ、頭陀に入れし五器一具、難波津の旅亭に捨てしを破らず、七年(ななとせ)の後、湖上の粟津迄送りければ、是をさへ過ぎしかたをおもひ出だして哀れなりしままに、翁へこの事物語し侍りければ」と、路通の前書きを付して掲出。

 これによれば、路通の物語によって作句したもので、「古合子(ふるがふす)の銘」とでもいったような詠みぶりになっている。
 七年ぶりに持主のもとに戻った古合子をたたえて、誠意ある難波の旅亭の主の心根を賞しており、路通とともに喜ぶ気持ちがよく調子に生かされた発想となった。

 「合子」は、身と蓋とから成る小さい容器で、蓋のある漆塗りの椀の類をいう。ガウスあるいはガフシとも称する。『枕草子』に、「殿上のがふし」とある。
 「五器」は「御器」に同じく、食物を盛る蓋付きの椀、すなわち合子をいう。
 「一具」は、ひとそろい。

 煤掃(すすはき)にかかわる句で冬。煤掃は、もと十二月十三日に行なわれる慣習があった。この句では、「煤に染む」で煤掃に関する季語としたものであろう。

    「聞けば、七年前に預けておいた五器一具が、わざわざ送り届けられたそう
     だが、その五器は、これぞまことに世塵に汚染していない風雅の世界の
     古合子というべきであろう」


      お不動の裏より声や煤払ひ     季 己

年の暮

2009年12月13日 21時18分02秒 | Weblog
        成りにけり成りにけりまで年の暮     芭 蕉

 謡曲の詞章を生かして、軽い口調でうたいあげたところが作者としての得意の点である。
 師匠の北村季吟も、「としの終になるこころを、成りにけりなりにけりまでといひなせる、ともに感情の所ながら、句は詞(ことば)づかひ一入(ひとしほ)なるべきものなるに、右の重詞(かさねことば)新しく珍重に候なり」と判詞の中でほめている。
 西山宗因にも、「年たけてなりけりなりけり春に又」の作があり、当時流行の発想であったことがわかる。

 「六百番俳諧発句合」に「歳暮」として所出。同書季吟判は延宝五年閏十二月五日と奥書があるので、延宝四年(1676)ごろの作といわれている。
 季語は「年の暮」で冬。

    「謡曲では、『なりにけり、なりにけり』というような繰り返しのことばで
     終わりになるが、一年もすっかりおしつまって、まさに年の暮に『なり
     にけり、なりにけり』というまでになってしまった」


      迫り来る年の瀬 片目だるまかな     季 己

蓑と笠

2009年12月12日 21時02分23秒 | Weblog
          小町画賛
        貴さや雪降らぬ日も蓑と笠     芭 蕉

 「卒都婆小町」の画が発想の契機となったものである。
 美の盛りより、むしろ失われた美を愛好するという態度は、遠く日本文学の伝統の中を流れてきている一つの感じ方でもある。芭蕉も老い衰えたところに、侘びの味わいを見たのかも知れない。

 『奉納集』などに、「あなたふとあなたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし。いかなる人か語り伝へ、いづれの人かうつしとどめて、千歳のまぼろし、今ここに現ず。其のかたちある時はたましひ又ここにあらむ。蓑も貴し、笠もたふとし」という文を付して掲出。
 なぜ「あなたふとたふと、笠もたふとし、蓑もたふとし」なのだろうか。小野小町(の画)が貴いのはわかるが、「蓑も貴し、笠もたふとし」がわからなかった。

 スサノオノミコトが、高天原を追放されるときには、蓑・笠を身にまとっていた。又、秋田県男鹿半島の“なまはげ”は、青年たちがカミに仮装して家々を訪れるものであるが、彼らも蓑をまとっている。“かくれ蓑”の昔話は、蓑とか笠とかが、カミの身につけるもので、したがってカミのシンボルであったことをものがたっている。
 さらに、『皇大神宮儀式帳』には、「四月十四日は、アマテラスオオミカミに新しい着物を差し上げるまつりである。この日にはまた、御笠縫内人(みかさぬいのうちびと)という役目の神官が、蓑と笠を二十二ずつ作ってカミに差し上げる」という内容の記事があり、差し上げる神社の名と、差し上げる数を書きあげている。
 だいじなカミまつりの日に、皇大神宮では、天照大神の本宮とおもだった神社に、蓑と笠を差し上げる神事が行なわれていたのだ。蓑・笠は、カミがカミであるしるしに、身につけるものなのである。
 この行事は、風雨を防ぐ道具をカミに差し上げて、風雨の平安を祈る行事であり、農業が順調に行なわれて穀物がよく実るように、太陽や風や雷のカミに天気を祈るまつりでもあったのである。
 以上のようなことから、今は、「蓑も貴し、笠もたふとし」と理解しているが、どうであろうか。

 「雪降らぬ日も蓑と笠」は、落剥(らくはく)した卒都婆小町の姿をいったもの。『奉納集』には、信之筆の画の写しを掲出する。小野小町は、盛りの時は絶世の美女であったが、老後零落したという伝説があるので、それが謡曲にも取材され、俳諧にも非常に多く詠ぜられている。
 「卒都婆小町」には、「破れ蓑、破れ笠、面(おもて)ばかりも隠さねば、まして霜雪・雨露・涙をだにも抑ふべき袂も袖もあらばこそ……」とある。

 季語は「雪」で冬。画賛であるために、「雪降らぬ日」は叙述的で、雪は現実感を生かしたものではない。

    「雪が降ってもいない日に、破れ蓑、破れ笠をつけ、卒塔婆に腰うちかけた
     小野小町のこの老いた絵姿は、絶世の美女ともてはやされたそのかみの
     華やかさよりも、かえって神々しい貴さを感ぜしめることよ」


      北風の磨く星あり美術館     季 己

寒くとも

2009年12月11日 20時44分37秒 | Weblog
  東京は、雨の降る寒い一日であった。といっても、9時40分頃から14時45分頃までは、暖房のきいた都立駒込病院にいたのだが……。
 先々週、先週と検査を受けたのだが、白血球のNYU数が1500未満ということで、第3回目の抗がん剤投与が見送られてきた。
 それが、今日は白血球の数が回復し、NYU数も1590となり、第3回目の抗がん剤投与となった次第。
 最も恐れていた吐き気や、食欲不振の副作用が起こらなかったのは幸いであった。だがこの寒さでの、指先のしびれという副作用は、なんともしがたい。部屋には暖房がないため、今も手袋をしたままキーボードを叩いている。例の小型爆弾、いや、5ーFUの46時間連続点滴をつけたまま――。

        人々をしぐれよ宿は寒くとも     芭 蕉

 『蕉翁全伝』に、「此の句は配力亭に遊ばれし夜なり。俳諧あり。六句にて捨つる。路通あり」と注記して掲出。
 杉野配力(はいりき)亭に集うた人々は皆、芭蕉に親しい伊賀の人や、風雅の門人であったはずである。
 誰も言葉すくなに、侘びの思いにひそみ入り、深く心を通わせあって坐している。そうした一座を、なおいっそう侘びに徹した場になすものとして、時雨を欲する体に発想したものであろう。
 独詠風の詠みぶりであるが、句の成立事情から、配力への挨拶の意がこめられていたと見てもよかろう。
 したがって、「宿は寒くとも」からは、それとの対比で、配力のこころづかい、さらには連衆の心の触れあいのあたたかさなどが読みとれる。
 しかし、挨拶として見れば、客としての挨拶よりは亭主としての挨拶とした方が、ふさわしい気がする。

 「人々をしぐれよ」は、人々の上に時雨が降りかかれ、の意であるが、「人々にしぐれよ」ではなく、「人々を」と「しぐる」を他動詞的に用いたものと思う。
 人々が時雨の中に包み込まれ、時雨の色となり、時雨の音となってゆく感じ、つまり、自然との一体感を味わいたい。「自然との一体感」は、変人の理想とする境地でもある。
 「配力」は杉野氏、房通、通称勘兵衛。藤堂藩伊賀付で、作事目付役。蕉門俳人。
 季語は「しぐれ」で冬。侘びしい風趣をそそるものとしての時雨をとらえている。元禄二年作という。

    「時雨してよしやこの宿は寒くなろうとも、ここに集う人々の上に時雨が
     降りかかって、今日の会の趣を深くしてほしいものだ」


      点滴のうつつや京の片時雨     季 己

悲願

2009年12月10日 19時36分46秒 | Weblog
      示 児  〈児(じ)に示す〉     陸 遊(正しくは氵)

    死去元知萬事空    死し去らば元(もと)知る万事空しと
    但悲不見九州同    但(た)だ悲しむ九州の同じきを見ざるを
    王師北定中原日    王師(おうし)北のかた中原を定めん日
    家祭無忘告乃翁    家祭乃翁(かさいだいおう)に告ぐるを忘るること無かれ

     死んでしまえば万事おしまいだ、ということなどはもとより知っている。
     ただ中国全土の統一した姿が、死んでしまって見られないのは残念なことだ。
     天子の軍隊が、北方の中原地帯を平定したならば、その日には、
     先祖の祭をしてお前たちの父に知らせることを、どうか忘れないでくれ。

 この七言絶句には、悲憤慷慨(こうがい)するような、激情を示す言葉は見あたらない。むしろ淡々と、ひとりごとを述べているような作品である。
 しかし、これは1209年、八十五歳の暮れに、死に臨んで子供たちに残した辞世の句であり、およそ一万首に及ぶ彼の作品の最後の詩である。この詩に秘められた彼の思いの深さに感動せざるを得ない。

 間もなく死ぬことをさとった作者は、死の向こうに透明な無の世界を感じている。死の前には、彼が愛した田園も肉親も、一生かけて残した詩も、すべては彼がよく詩にうたった夢のように、はかなく消え去ってしまう。
 しかし、それにしても、死でさえ消すことができないのは、彼が全生涯を通じて叫びつづけてきた国家統一の悲願なのであった。彼はついに一度も中原(ちゅうげん=中国の中央部)に足を踏み入れず、長安に触れることもできなかった。
 物心ついたときから八十年間、片時もなおざりにすることもなく思い続けてきた中原回復の願いは、死の直前に、この詩の中に凝結した。このとき、六十二歳の長男から三十三歳の末子まで、作者の六人の息子たちは健在であった。
 しかし、だれも父の霊に、中原平定の報告をすることはできなかった。宿敵の金ともども、宋が、蒙古(もうこ)の元に滅ぼされようなど、知る由もないことである。


      ホームレスのうしろ師走の街灯り     季 己 

炉開き

2009年12月09日 10時32分18秒 | Weblog
        炉開や左官老い行く鬢の霜     芭 蕉

 炉開きは、茶式と普通のものと二通りあるが、どちらで解釈しても差し支えないと思う。
 左官が、炉の内塗りか何かをしている。芭蕉は、それをじっと見ている。その年々見慣れた左官の鬢には、いつか白いものが見えて、老いの姿がうかがわれる。そんなひとときが把握されているのである。
 左官の鬢の霜を眺め、そこに老い行く姿を見ることで、自らの上にも加わってゆく老いの姿を感じとった、しみじみとした心境の作である。
 「老い行く」という把握のうつりゆく感じは、実によく生きている。
 元禄五年(1692)ごろの作という。

 「炉開(ろびらき)」は、農家や寒い地方などで、冬になり始めて炉を開き、火を入れること。一間(ひとま)に炉を開くと、なぜか、よりどころを得て落ちついた気分になり、おのずと一家団欒の話も弾む。
 茶道においては、四月一日から九月晦日(みそか)まで風炉(ふろ)を用い、十月一日より三月晦日までは風炉を廃し、地炉(じろ)を用い釜をかけるが、その地炉を開くことをいう。
 普通の家でも、京都などでは十月一日あるいは十月中の亥(い)の日を選んで炉を開くのが習いとなっていたが、現代ではあまりこだわらない。
 「左官(さかん)」は壁塗りの職人。宮中の修理に際し、仮に木工(もく)寮の属(さかん=四等官)として出入りさせたことからの名という。
 「鬢(びん)の霜」は、白髪をたとえたもの。「鬢」は、頭の両側面の髪。

 季語は「炉開」で冬。「炉開」は、冬を迎える準備の一つであって、そのわびしさの中に、左官の老いをさみしむ思いが揺曳している。

    「冬に入るので炉を開こうとして、なじみの左官を呼んだ。この左官が黙々と
     うつむいて仕事をしている姿を見ていると、いつの間にかその鬢の毛には、
     寄る年波の霜が置かれていたことだ」


      置炬燵とはずがたりの母とゐて     季 己

芸大博士展

2009年12月08日 20時36分09秒 | Weblog
 芸大の博士展、正確に言えば、「東京藝術大学 大学院美術研究科 博士審査展」が今日から始まった。(12月20日まで。14日は休館)
 同大大学美術館の地下2階と3階の展示室に、博士の学位を申請した31名の、いわゆる修了制作の作品と論文が展示されている。
 まず、論文から見ていこう。以前から比べると今年の論文は、いくらかましになったように思う。だが、「私が今制作している……」のように、「私が今……」で始まる論文がかなりあるのが残念であった。
 これまで、「私が……」・「私は……」で始まる論文で、感服するようなものに出合ったことのない変人は、こういう論文を見ると拒絶反応を起こしてしまう。それでも辛抱して読んでみるのだが、やはり、参考文献の引用・孫引きが多く、創見があまりない。
 「作品さえよければ」という考えもあろうが、自分自身の美術に対する《思い》を言葉で表現できれば、もっと作品に深みや独自性が増してくるのではなかろうか。

 次に作品。これは流れ石、いや、さすがである。詳細については、あと何回か拝見してから書くことにする。
 変人が「手元に置きたい」と思った作品の作者は次の通り。(敬称略)
   川 又   聡 (日本画)    中 川 麻 記 (日本画)
   松 下 雅 寿 (日本画)    周   美 花 (油画・壁画)
   山 口 エスメ (彫 金)    サブーリテイムール (陶 芸)


      学生の眼のことごとく十二月     季 己

純な目

2009年12月07日 20時18分21秒 | Weblog
        初雪や水仙の葉のたわむまで     芭 蕉

 子どものように純な目で初雪を見ているところがよい。その物珍しい驚きの目つきが、「水仙の葉のたわむまで」にいきいきと出ている。
 水仙の葉は厚いが、柔軟でさほど強い感じのものではない。それに初雪が降り積もって、やわらかにたわむまでになったというのである。「まで」には、期待し、その期待を満たすところまでにいたった喜びが見られる。
 『目団扇(もくうちわ)』などには下五が「たわむほど」となっているが、「ほど」だと、「まで」のような喜びの感じが薄れてしまうように思われる。

 季語は『初雪』で冬。初雪を見る感動をそのまま出すのではなく、「水仙」という一つのものを通して喜びを生かそうとしている。「初雪」の「初」に注意して味わうことが必要であろう。「水仙」も冬の季語。

    「待ち望んでいた初雪が降ったよ。水仙の葉がやんわりたわむまでに……」


      水仙の昼を画廊に三時間     季 己

枯草

2009年12月06日 22時45分40秒 | Weblog
          霜の後(のち)葎(むぐら)を訪ひて
        花皆枯れて哀れをこぼす草の種     芭 蕉

 知的な計らいが入っている句である。
 「哀れをこぼす」は、一つの知的傾向としてはおもしろいのだが、これが緊張感を失うと、その弊害はとどまるところをしらぬことになる。
 「こぼす」は、「哀れ」・「草の種」の両方にからませた表現。
 「草の実(草の種)」は秋であるが、ここは霜の後であるから、実質としては「枯草」の句で、冬季。

    「霜が激しく降りた後、葎の生い茂っていた園のあたりを訪ねてみると、
     秋草はすっかり枯れ果て、ただ草の種がしきりにこぼれている。そのさ
     まは、まさに哀れをこぼしているもののように見える」


      枯草の川の走りをにぎり飯     季 己

貞徳

2009年12月05日 23時15分24秒 | Weblog
          貞徳翁の姿を賛して
        幼な名や知らぬ翁の丸頭巾     芭 蕉

 幼名を知らぬ意味にもとれるが、そうではなかろう。会ったことのない意味の「知らぬ翁(おきな)」ととりたい。長頭丸(ちょうずまる)という童名のような名を持ちながら、丸頭巾(まるずきん)をかぶっていることに興を覚えているのであろう。

 「貞徳翁」は、江戸初期の俳人・歌人の松永貞徳。童名は勝熊丸であるが、老後は長頭丸・保童坊などと号した。貞徳は京都の人で、細川幽斎に和歌を、里村紹巴(じょうは)に連歌を学んだ。和歌や歌学を庶民に教え、狂歌も近世初期第一の作者。『俳諧御傘(ごさん)』を著して、俳諧の式目を定め貞門俳諧の祖となる。花の下宗匠とも呼ばれ、門人に北村季吟(きぎん)らの七哲がある。芭蕉は、その季吟の門人。
 「幼な名や」は、貞徳の長頭丸という童めいた名に興じたもの。
 「知らぬ翁」については、『拾遺集』の旋頭歌(せどうか)「ます鏡そこなる影に向かひゐて見るときにこそ知らぬ翁にあふ心地すれ」、宗祇自画像賛の「うつし置く我が影ながら世の憂さも知らぬ翁ぞうらやまれぬる」によるとする説もある。

 季語は「頭巾」で冬。「丸頭巾」は、ほうろく頭巾ともいい、老人のかぶるもの。長頭丸あるいは保童坊という名が、発想の契機となっている。

    「自分のまみえることを得なかった貞徳翁を、長頭丸という童めいた名で
     呼ぶのであるが、この翁の丸頭巾姿は、そのおさなびた名にふさわしく
     親しみ深い」


      少女期のにほひ隣に冬帽子     季 己

かいつぶり

2009年12月04日 22時49分49秒 | Weblog
        隠れけり師走の海のかいつぶり     芭 蕉

 「師走の海」を歳暮の世の海とし、「隠れけり」を掛乞(かけごい)などから人が隠れることとるのは、理に堕ちた解でおもしろくない。世事の繁忙を厭うて世外に逃れている身を、「かいつぶり」の上に投影したとする解も、あらわにすぎるであろう。
 「師走の海」というのは単に師走の時期の海(湖)ととるべきではなく、海にも師走を感じとっていると解すべきである。そこに「かいつぶり」のふるまいが俳諧として生かされたことになる。「かいつぶり」のふるまいにおのずと自己観照の心境がにじみ出てきたというふうに理解したい。
 「隠れけり」という唐突な発想が、みごとに生かされている。

 「かいつぶり」は、かいつむり・にほ・にほどりともいい、カイツブリ科の水鳥。全国の湖沼や川のよどんだところに見られる暗褐色の鳥。鳩ぐらいの大きさで、体は丸い。脚は後方に付き、翼は退化、尾もほとんどないので、陸上の歩行はつたなく、長距離の飛翔も苦手である。
 ほとんど水の上に棲み、水上の走行や潜水を得意とする。反り返るようにして弾みをつけて潜るので、2メートル近く潜れる。縄張り争いのため水面で追いつ追われつのはげしい争いをよくする。留鳥であるが、水鳥の一つとして、俳句では冬の季語とされている。なお、琵琶湖はその古名を「にほのうみ」といった。
 季語は「師走」で冬。「かいつぶり」も冬であるが、この句では「師走」が季語としてはたらいていると思う。

    「広い琵琶湖の上を見渡していると、水面にかいつぶりが水に潜ってふと
     隠れてしまった。寒々とした湖面でのかいつぶりのそのせわしげな動き
     が、いかにも師走らしい海(湖)を感じさせることだ」


      堂暮るる冷えをひろげてにほの波     季 己

鴨の声

2009年12月03日 20時07分56秒 | Weblog
          海辺に日暮らして
        海暮れて鴨の声ほのかに白し     芭 蕉

 闇の中に鴨がほの白く見えるので、「鴨の声ほのかに白し」と表現した、ととるのは理詰めでおもしろくない。鴨の声そのものの感じを、直観的に「白し」と感じとったのである。
 ことに、「海辺に日暮らして」というのであるから、しだいに夕べの光の中に消えてゆく過程を心におかないと、この句は、動きのないものになってしまう。
 海がしだいに暮れていって、最後に「鴨の声ほのかに白し」となるのである。
 また、これを表現するのに、五・五・七のリズムであらわしているのも注目すべきである。「海暮れてほのかに白し鴨の声」といったのでは、闇へひろがってゆく心の波動がなくなってしまい、「鴨の声」も「ほのかに白し」も生きてこない。

 この五・五・七という破格は、天和年中(1681~1684)に、「蝶よ蝶よ唐土(もろこし)のはいかい問はむ」という前例があるが、貞享元年(1684)には、「唐土の俳諧とはんとぶ小蝶」と正形に直されている。
 それでこの破格は、決して天和調の残影ではなく、対象に即し、その印象をそのまま重ねてゆく、貞享初年の新たな句境に基づくものだと思われる。
 鴨の声が白いという、聴覚印象と視覚印象の交響も、その面からとらえられなければならない。
 貞享元年旅中の作。一説に、貞享元年十二月十九日の吟。
 「鴨」が季語で冬。鴨の季感がよく生かされている。これまでの鴨の句のうち、最もふさわしい名句だと思う。

    「しだいに光が薄れていった海面は、やがてとっぷりと暮れる。暗い沖合
     から白い波頭が打ち寄せ、鴨の声がほのかに聞こえてくる。闇から聞こ
     えてくるその声に聴き入ると、その声にいつか、ほのかな白さが感じら
     れてくる」


      をしどりのゆくすゑをもてあましゐる     季 己

仁愛

2009年12月02日 23時10分06秒 | Weblog
 多くの人から好かれたり敬慕される人を、世間では“人徳のある人”という。
 人徳を辞書で引くと、「その人に自然に備わっている徳」とある。しかし徳の力は、必ずしも生まれつきそなわっている品性とは限らない。ふだんから人間としてなすべき事をしていくなら、その積み上げによって、自然に身につくものではなかろうか。
 人徳は、他人に親切にするとともに、自分に対しては厳しく、そしてよい教えを信じて実践に励むなら、やがては人徳が自分の身に添うであろう。
 また、金銭に恵まれる人を“金徳者”という。金銭に限らず、人や物をつねに大切にする人のまわりには、いつとはなしに人も物も金銭も集まってくるとは、よく言われることである。
 その人徳も金徳もない、ただの変人は猛反省をし、精進・努力をしなければ……

            武蔵守泰時
          仁愛を先とし、政(まつりごと)は
          欲を去るを以て先と為す
        明月の出づるや五十一箇条     芭 蕉

 この明月は、ある時あるところで芭蕉によって生かされたというようなものではなく、きわめて平凡な発想である。こういう句も芭蕉にはあるのだと知ると、なぜかホッとする。

 「仁愛」は、「めぐみいつくしむこと」つまり「思いやり」。
 「五十一箇条」というのは、貞永元年(1232)、北条泰時の制定した貞永式目(御成敗式目)のことで、五十一箇条から成っている。
 季語は「明月」で秋。貞永式目の世に出たのを、明月のさしのぼるのによせた比喩的な使い方である。

    「曇りなき明月が、いま、さしのぼって世を照らしはじめた。かつて武蔵
     守泰時が、治世に心を砕き、明るい政治の土台として五十一箇条の式目
     を発布したのも、この月の出のような感じだったのであろう」


      冬満月もろもろの徳みなぎらせ     季 己