壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

寒くとも

2009年12月11日 20時44分37秒 | Weblog
  東京は、雨の降る寒い一日であった。といっても、9時40分頃から14時45分頃までは、暖房のきいた都立駒込病院にいたのだが……。
 先々週、先週と検査を受けたのだが、白血球のNYU数が1500未満ということで、第3回目の抗がん剤投与が見送られてきた。
 それが、今日は白血球の数が回復し、NYU数も1590となり、第3回目の抗がん剤投与となった次第。
 最も恐れていた吐き気や、食欲不振の副作用が起こらなかったのは幸いであった。だがこの寒さでの、指先のしびれという副作用は、なんともしがたい。部屋には暖房がないため、今も手袋をしたままキーボードを叩いている。例の小型爆弾、いや、5ーFUの46時間連続点滴をつけたまま――。

        人々をしぐれよ宿は寒くとも     芭 蕉

 『蕉翁全伝』に、「此の句は配力亭に遊ばれし夜なり。俳諧あり。六句にて捨つる。路通あり」と注記して掲出。
 杉野配力(はいりき)亭に集うた人々は皆、芭蕉に親しい伊賀の人や、風雅の門人であったはずである。
 誰も言葉すくなに、侘びの思いにひそみ入り、深く心を通わせあって坐している。そうした一座を、なおいっそう侘びに徹した場になすものとして、時雨を欲する体に発想したものであろう。
 独詠風の詠みぶりであるが、句の成立事情から、配力への挨拶の意がこめられていたと見てもよかろう。
 したがって、「宿は寒くとも」からは、それとの対比で、配力のこころづかい、さらには連衆の心の触れあいのあたたかさなどが読みとれる。
 しかし、挨拶として見れば、客としての挨拶よりは亭主としての挨拶とした方が、ふさわしい気がする。

 「人々をしぐれよ」は、人々の上に時雨が降りかかれ、の意であるが、「人々にしぐれよ」ではなく、「人々を」と「しぐる」を他動詞的に用いたものと思う。
 人々が時雨の中に包み込まれ、時雨の色となり、時雨の音となってゆく感じ、つまり、自然との一体感を味わいたい。「自然との一体感」は、変人の理想とする境地でもある。
 「配力」は杉野氏、房通、通称勘兵衛。藤堂藩伊賀付で、作事目付役。蕉門俳人。
 季語は「しぐれ」で冬。侘びしい風趣をそそるものとしての時雨をとらえている。元禄二年作という。

    「時雨してよしやこの宿は寒くなろうとも、ここに集う人々の上に時雨が
     降りかかって、今日の会の趣を深くしてほしいものだ」


      点滴のうつつや京の片時雨     季 己